キ/GM/21-30/24
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祥子がノックもしないで事務所のドアを開けたとき、史緒はいつも通りパソコンに向かっていた。
史緒は事務作業の際にのみ使用する眼鏡を掛けていた。襟を折り返す白いセーターを着ていた。長いストレートの黒髪を肩におろしていた。その髪に隠れているけど、両耳に赤いイヤリングが付いているはずだ。背筋を伸ばした姿勢でキーボードとマウスを操作していて、どんなときも隅々まで神経の行き届いたような崩れない表情。史緒はドアの開く音でその顔を上げると、
「おはよう」
と、祥子に声をかけた。
祥子は挨拶を返さなかった。
ドアを背に立つ祥子の、その延長線上に史緒が座っている。
教室ほどの広さを持つ事務所には他に誰もいなかった。
室内の三方にある本棚、書類棚。給湯室へ続くドアと、ベランダへ出られる引き戸。
中央のソファとテーブル。今は誰もいない。
まるで初めてここに立つような知らない空気を、祥子は感じた。
数え切れないくらい、この部屋には来たはずなのに。
この部屋の中は何か変わったのだろうか。
それとも、自分の中の何かが変わったのだろうか…。
つと。
祥子は無言で歩を進めた。応接用ソファとテーブルの間をくぐり、真っ直ぐに。
机の前まで歩み寄り、史緒の目の前に立つ。
意外にも史緒は事務作業に戻らず、祥子の方へ気を向けていた。
無表情で感情を見せない顔が、祥子を見上げていた。
その瞳を遠慮無く見下ろした。
「───ねぇ」祥子は言った。「正直に答えて」
否定を許さない響き。
史緒は軽く息をつくと、度無しの眼鏡を外した。
「了解」
と、短く答える。
それだけで祥子は、既に蘭が、何かしら史緒へ伝えたのだと察した。
祥子が何しに来たのか、史緒は知っているのだ。
そうでもなければ、史緒が祥子の言葉を躱さずに受け止めるはず、ないから。
祥子は今、自分がこの怒りを外へ表していないことにひどく驚いている。
荒れ狂うような激昂が、今、ここにある。胸の中にある。
痛い程、胸が騒いでいる。
痛い、という感覚は不思議だ。痛みは内臓器官の位置を教えてくれる。
胃の位置、腸の位置、声帯の位置、そして心の位置。
今日、祥子は自分がA.CO.に居る理由を知った。
祥子が今日までA.CO.に居られたのは、川口蘭の存在が在ったからだと思っていた。
性格と根性の悪い阿達史緒、彼女と一緒にいるのが耐えられなくなった頃、蘭と出会った。
この事務所へやってきた。明るい笑顔を見せて。
その明るさや、真っ直ぐな笑顔、ひたむきさ、何より祥子を慕ってくれていた。祥子も蘭に惹かれていった。
でも、川口蘭の登場は阿達史緒が仕組んだものだということを、今日、知った。
一年前、祥子がA.CO.を辞めたいと思っていた、あの時期に、蘭がここへ来たのは偶然じゃない。
その結論に至ったときに吐きそうになったのは、決して気のせいじゃない。
「蘭の実家ってどこ?」
「香港」史緒は約束通り正直に答えた。「言っておくけど、それを隠してた覚えはないわよ」
あなたが勘違いしていただけ、非難される謂れはない、とでも言うような据えた目で、史緒は首を傾けた。
「史緒は蘭と、いつから知り合いだったの?」
「もう10年以上前ね。私が6歳の頃だったから」
「…蘭は香港でしょう? どんな付き合いしてたの?」
「主に手紙ね。文通。それに蘭はよく日本に遊びに来てたの」
「そのときに、蘭は篤志と会ったのね…」
「そうらしいわね。その時、私は日本に居なかったけど」
「篤志と出会ってからも、蘭は香港で暮らしてて、日本へはたまに来る程度だったんでしょう?」
「ええ」
「一年前、蘭がA.CO.へ来たのは篤志の近くにいたいからだって言ってた。それならどうしてもっと早くに、日本へ来なかったんだと思う? どうしてあんな中途半端な時期に来たの?」
その質問に史緒は答えなかった。ただその表情は、無表情との微妙な境目にある、笑み、に見えた。
笑っているように見えた。
祥子は胸を押さえて、込み上げるものを抑えた。
「一年前、蘭をここへ呼んだのは、───…史緒?」
「ええ」
即答だった。
「私を辞めさせないため…?」
「ええ」
即答だった。
「私を留まらせるために、蘭を利用したの…?」
「───そうよ」
口端を持ち上げて、史緒は微笑した。
祥子は凍りつく。何故、そこで笑う?
苦しくなって、拳で胸を押さえた。息苦しかった。それが胸をいっぱいにする憤りのせであることはわかっていた。
「…ひどい」
消えそうなほど小さく吐いた声。
その声は史緒に届いただろうか。
祥子は蘭のことを考える。
ここへ来る前、蘭はどんな場所で、どんな人々に囲まれ、どんな生活をしていたんだろう。
家族が多いって、聞いたことがある。
そのときの嬉しそうな表情から、蘭が家族をとても大切にしていることが伺える。きっと友達もたくさんいただろう。学校や毎日歩いていた街、十年以上住んでいた家。
どんな風景を愛し、どんな人々と触れ合ってきたのだろう。
それらすべてと別れてまで、蘭は日本へ来た。
それらすべてを手放してまで、蘭は。
史緒のため? 冗談じゃない。
(蘭もどうかしてるっ)
祥子が心の中でそんな風に叫んだときのことだった。
「どうしてひどいの?」史緒が平然と言った。
「…なんですって?」
「蘭は以前から日本へ来たがっていたから都合が良かったし、祥子はその力を使える場所を探していた、でも勢いで辞めてしまえるくらいにあなたは感情的だったから、ここに落ち着くための存在が必要だったでしょう? それを用意してあげただけ」
「ふざけるな…っ!」
祥子は胸が張り裂けるのがわかった。爆発して、吐き出した。
「そういう考え方するあんたにもぉ、正直、むかつく。本当にどうしてそう無神経なのっ、誰もが史緒の言う通りになると思ってる? 思い通りに動かせると思ってる? 自分の思った通りになって嬉しい? それで満足なの? それが望んだことなの?」
「変なこと言わないで。思い通りになれば嬉しいし、満足よ。望んだことだわ。当たり前でしょ?」
史緒があまりにも事も無げに言うので、祥子は言葉を本当に失った。
伝わらない、と。コミュニケーションの限界を思い知ったとき、人は伝えようとする初志さえ失う。
スッ、と、頭が冷めて、冴えていくのが判った。
「史緒」
「なぁに?」
「最低」
ぽつり、と呟いた。口にしたことで改めて実感する。それを噛み締めるように祥子はもう一度繰り返した。
「本当に最低よ…っ!」
どうしてだろう。一度爆発した胸の熱が収まっていく。
理由もわからないまま、ある言葉が頭に浮んだ。
(もうだめだ)
何がだめなのか、漠然としている。
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