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「ねぇ、いつか言ってたわね。本当に憎い相手がいるかって」
「ええ。よく覚えてるわね」
 一月程前、史緒は言ったことがある。
〈祥子は、誰かを憎んだことがある?〉と。〈それに近い感情は、あんたに対して抱いているかもね〉と祥子は答えた。史緒は無視して続けた。
〈本当に許せない、近づくだけで吐き気がして、心臓を握られるような嫌悪感。それから、少しの殺意…〉
 殺意。
 それを聞いたとき、祥子は漠然と理解した。
 史緒には過去、そのような対象となる人間がいたのだ。今は近くにいない誰か。
〈史緒さんは、気に入った人間しか近くに置きません〉
 つい先日、蘭はそう言った。でも。
(違うよ、蘭)
 史緒は誰にも執着してない。誰にも気を許してない。
 今は嫌いな人間がいない。それは本当かもしれない。でもだからこそ、好きな人もいない。
 そうでなければ、利用してる、なんて言えないでしょっ?
 史緒のこと嫌いだった。それは史緒本人や他の仲間にも公言してきたこと。
 でも、今は違う。
「…私は」祥子は声にする。史緒に聞かせるため。
「憎いとか嫌悪感とか、史緒のこと、そう思えない」
「───…」
 予想外の台詞に史緒は驚いたようだった。微かに眉を動かした。
 史緒の表情を動かすことに成功したからと言って、祥子は喜んだりしない。
 もう、だめだから。諦めたから。
「そんな対象にさえ、ならない」
 蘭を利用したことは酷いと思うけど、もう、いい。
 諦めたから。

「…さっき、思い通りになれば嬉しいって言ったけど、史緒の思いってなに? 私には史緒が何したいのかわかんない。どんなポリシー持って、何を目指してるのか。そういうの、話してくれる気もないんでしょ? あんたはいっつも、本気じゃないもの。本気を出さない。───そういうところが嫌い。でも、憎くはないわ」
 穏やか、という表現させ許されるような表情で、祥子は笑った。そんな笑顔を見て、史緒は言葉を失う。
「そんな感情を持てるほど、私、史緒のこと知らない。史緒だって、私のこと信用してない、一年前も今も何も変わってない」
 祥子は最後の呼吸をした。
「もう、一緒にいられない。もう、ここには来ない。…辞める」
 それだけ言うと祥子は史緒を視界から消すために踵を返す。
 振り返らないまま、部屋を後にした。
 ばたん、と静かにドアが閉まった。
 しかしすぐに、もう一度ドアが開いて、廊下で立ち聞きしていたと思われる三佳が顔を覗かせた。
「どうするんだ?」
 声を荒げはしなかったが、内心の動揺がうかがえる様子だった。彼女にしては珍しい。
 史緒は三佳の呼びかけは無視して、溜め息をひとつ。椅子に座り、処理の途中だった書類を机で叩いてまとめた。
 机の3段目の引き出しを開けて、A4サイズの封筒を取り出すとその書類を入れる。両面テープの封をして割印をひとつ押した。それを机の上に置き、今度は壁際の棚に向かって、台帳を取り出し封筒の内容と日付を記入する。
 それをパタンと閉じると、史緒は台帳を戻しながら、三佳に声をかけた。
「三佳」
「何だ」
「朝、言った通り、私、そろそろ出かけるから留守お願い」
「───」
「帰りは遅くなるから、夕食はいらない」
「史緒…っ、祥子のこと」
「三佳が気にする必要はないわ」
 史緒は三佳と視線を合わせなかった。
「私の問題よ。これは」


*  *  *


 蘭は史緒の言いつけを無視してA.CO.に向かっていた。
 祥子に遅れること15分。そのたった15分は、手後れになるには十分な時間だった。
 蘭が月曜館の前を走って通り過ぎたとき、A.CO.の建物から祥子が出てくるのが見えた。
「祥子さん…っ」
 その呼びかけで祥子は顔を上げる。しかし無表情のまま、歩く速度を上げた。そのまま早歩きで蘭の横を音もなく通りすぎた。無視した。
 蘭はめげずにその姿を追う。
「祥子さ…」
「ごめん、蘭。今は何言われても素直に聞けそうもない」
 祥子の横顔が応える。
「祥子さん、どうして怒ってるんですか、あたし、何か…」
「蘭に怒ってるわけじゃないの。───史緒よ」
「どうして史緒さんに怒るの? 史緒さんは悪くないです、あたしが、来たかったから、日本へ来たんです」
 見向きもしないで去る祥子を必死で追いかけて、蘭は訴える。
「あたしは、小さい頃からずっと、史緒さんと一緒に居たいって思ってたんです。史緒さんに必要とされる日を待ってた。祥子さんが、その理由をくれたんです。だから」
「蘭。あなたも多少問題あるけど、史緒が蘭を利用したってことには変わりないじゃない、同じことでしょうっ?」
「だって祥子さんは知らないもの、以前の、史緒さんのこと…っ」
「ええ、知らないわ。…知りたくもないっ」
 もう喋りたくもないというように、祥子はさらに歩く速度を上げた。蘭は追うことを諦め足を止める。祥子を説得できる言葉は思い当たらなかった。
 祥子の後ろ姿を見送らなければならないこの今が、背筋が凍るくらい怖かった。
 怖いほど、悲しかった。
「───…っ」
 蘭はこぶしを胸にあて、自分が泣いてしまう前に叫んだ。「やめないで祥子さんっ!」
 8歩先を歩いていた祥子が振り返る。
「無理よッ!」
 その間、2秒。
 純粋な怒りを含んだ声。すぐに踵を返し、祥子は駅へと足早に去っていった。もう二度と振り返らなかった。
「祥子さん…」
 蘭は力なく呟く。
 ───祥子はここを出て、どこへ向かうのだろうか。

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