キ/GM/21-30/24
≪4/8≫
その日、留年が決定している篤志は、悪友たちの進級パーティに呼び付けられていた。とても分かり易い嫌味だが、こういう名目でもないと関谷篤志を大学へ呼び出すことは困難だ。なので、同級生達はこの機会をここぞとばかりに遠慮無く利用する。篤志は顔見せ程度のつもりで呼び出しに応じたのだが、解放されたのは夜の9時だった。
そして夜の9時。
浜松町のアパートへ帰り着いた篤志が、カンカンと音を立てて階段を昇ると、自分の部屋の前に立つ人影が見えた。一番奥のドア、そこに背を預けうつむいている。暗闇の中でも、髪の長い女だということは判った。
身構えたのは一瞬だけで、その人影の正体に気付くと篤志は眉をひそめた。
(いつから待ってるんだ?)
春先とは言え、この時間は息が白くなるほど寒い。こんな所でじっとしてるなど愚かな行為だ。篤志の帰りを待つなら、留守電に伝言して月曜館や事務所にいても同じことだろうに。
速度を変えずに近付くと、篤志の足音で、人影は顔を上げた。阿達史緒だった。
「おかえりなさい」
と、感情の読めない顔で言う。仕事で出かけていたのだろうか、スーツ姿で、薄地のコート姿だった。
いつから待っていた? という疑問を口にしても、史緒は「ついさっきよ」と答えるに決まってる。だから篤志は尋ねなかった。代わりに、
「若い女が夜遅くに男の部屋に来るもんじゃない」
と、説教した。
史緒は微かに笑う。
「いいじゃない別に。どうせ将来、結婚するかもしれないんだし」
その笑みは卑屈に見えた。
篤志は怒りを込めて低い声で言う。
「───殴るぞ」
史緒は目を細めて穏やかに笑った。
「いいよ」
篤志はゆっくり息を吸って、肺一杯の溜め息をついた。
「何があった?」
*
近所に住んでるとは言え、篤志のアパートに足を踏み入れたのは数える程しかない。篤志は他人を部屋に入れたがらないからだ。横浜にある篤志の実家でもそう。極端に嫌がるわけではなく、避けている、という様子。
今日は珍しく、部屋に招き入れてもらえた。さっき篤志は「夜遅くに部屋に来るな」と叱ったけど、史緒は知っている。もし万が一、いや、百万が一、篤志と史緒が結婚することはあっても、同じ確率で篤志が史緒に手を出すことはないだろう。
篤志はまだ奥の部屋から出てこない。テーブルの前で正座する史緒は室内を見渡した。すぐに本棚が目に入る。史緒は一時期貪るように本を濫読したことがあったが、篤志も相当の読書家だ。ただ史緒のような詰め込み屋ではなく、単純に面白いと感じ、脳と感性の刺激にしているようである。ジャンルには節操が無いようで、フィクションから古典、教養からファンタジーまであり、他にも大学関係の文献や、やはりあった「関谷高雄」の本。でもこんな風に、本棚の内容を見られることを篤志は嫌うだろう、とそこはかとなく思う。
本棚の一画に、小さな観葉植物が4つ並んでいた。それから両親の写真。大きなカレンダーが貼ってあり、今日の日付には「B棟118集合。10時」と走り書きされていた。
「何、きょろきょろしてるんだ」
と、襖が開いて篤志が入ってきた。湯飲みを2つときゅうすを両手に持っていて、それをテーブルの上に置くと手際良くいれる。そのあまりにも自然な動作に史緒は感心した。
「ほんと、篤志って昔から色々なことできたよね」
「茶、いれるくらいで何言ってんだ」
と、篤志は軽く吹き出す。ほれ、と湯飲みをひとつ史緒の前へ置いた。史緒は礼を言って受け取る。てのひらにジンと熱さが伝わった。篤志も自分でいれたお茶を無言で一口飲む。湯飲みをテーブルに置いてから、
「───で? 何があったって?」
と訊いた。
史緒は湯飲みが熱くて、まだそれを口につけられずにいた。少しの間両手で包んで、それでもまだ熱くて、結局、史緒はすぐに飲むのを諦めた。同じくテーブルの上に戻す。
「…祥子にね、嫌われちゃったわ」
視線を落としたまま呟いた。
「今回は本当にだめだと思う。…帰って、こないと思う」
今日の昼間、祥子は事務所を出て行った。もうここへは来ない、と。そう言っていた。
それに似たようなことはこれまで数多くあったけど、今日のは明らかに違う。違う。
篤志は、(いつものこと)とは思わなかった。史緒のその告白だけで状況を知り、理解した。深刻に受け止めながらも、わざと軽く返す。
「どうせまた、挑発するようなこと言ったんだろ」
史緒は口端だけで笑った。
「私は私らしいことしか言ってない」
「この1年で祥子は変わったわ」と、遠い目をする。
「大声を出すようになったし、会話の駆け引きやコミュニケーション…、人込みも以前より敬遠しなくなってるみたい。…そうよね、1年もあれば、誰でも変わるわね」
と、まるで新しい発見をしたように言う。
1年前の祥子は必要以上に周囲の視線を気にしていて、気の毒なくらいビクビクしていた。それが今では、休日には蘭と出かけたり、史緒と対等に口喧嘩をしたりする。確かに祥子は変わった。
「A.CO.じゃなくても生活していけるなら…。───祥子が辞めたいと言うなら、辞めてもいいと思ってた」
別に祥子を社会に適応させる為に雇ってたわけじゃない。そんなボランティア、誰もしない。
でも、A.CO.に居るのが辛くて、外で新たな世界を知りたいと本人が願うなら、それと止める権利など、勿論史緒は持ってない。
篤志はうつむいて喋る史緒を眺め、静かに言った。
「引き止めたいなら手を貸すぞ」
史緒は苦笑して、首を横に振る。
「…まさか。引き止めたいなんて、思ってないわ。───…ただ、少し意外なの」
「なにが?」
史緒はゆっくりと胸に手をやる。掴む。昼間から消えない、鈍い圧迫感。
原因は祥子だ。それは解ってる。
祥子が背を向けたときから、両の肺に置かれた小さな分銅。こそばゆく、手では外せない枷。時間とともに、呼吸をする度に、少しずつ重くなっているような気がする。
「こんなにショックを受けるなんて思わなかったの」
確かに祥子との関係は「仲の良い」ものではなかった。でも祥子が祥子のちからを有効利用できること、それに蘭も加わって、均衡が取れていると思っていた。
はっきり言うと、祥子はA.Co.を辞めることができないと思っていた。
今日の昼間も、史緒はそう思っていた。───祥子が背を向けるまで。
一方で、祥子が自ら辞めたいというなら、了解するつもりでいたことも事実だ。
計算外だったのは、この胸の痛みだけで。
「だいたい、おまえは自分を買いかぶりすぎなんだよ。どんなに強がっても、所詮は十代の小娘なんだから」
呆れたような素振りを見せながらも、篤志は史緒の発言に耳を疑うほど驚いていた。
祥子が出て行くことがショックだと言う。その感情が、意外だと言う。
司にも聞かせてやりたい。
史緒が、自分の意向に沿わない感情の発生に気付き、驚いて、それを口にするなんて。
とことん、自分については鈍感なやつだ、と思う。変わったのは祥子だけじゃない。祥子と出会って、この1年間で驚くほどの変化があったのは、史緒も同じだというのに。
「で? どうするんだ」
「どうもしない」
はっきりとそう言うと、史緒はすっかり冷めてしまった緑茶を一気に飲んだ。
「祥子のことはいいの。違う生活を、あの子が選んだだけだわ。ごめんなさい。結局、私、愚痴をこぼしに来ただけみたい」
「まぁ、いいさ」
「…可哀相なのは蘭ね。気落ちしてるようなら、慰めてあげて」
それきり、史緒は祥子のことを口にしなかった。
* * *
夕食の後、司がコーヒーを2人ぶんいれた。
コポコポと液体が落ち、いい香りが芳ってくるまで、三佳はテーブルに頬杖ついて、シンクに立つ司の後ろ姿を見ていた。
コーヒーに含まれるカフェインは感覚を鈍らせてしまう作用があるが、司は好んでよく飲む。視覚能力を他の感覚で補い、常にそれらをフルで働かせているはずの彼は、「コーヒー飲んでるほうがアンテナ広がるんだ」という表現をした。
「三佳、帰らなくていいの?」
その、司の背中が尋ねた。
「史緒の八つ当たりを受けるのは馬鹿らしいな」
三佳は嘆息混じりで答えた。多分、史緒はあからさまに感情を見せないだろうけど、苛立ちや張り詰めた空気は自然に伝わるものだ。
コトンと目の前にコーヒーカップが置かれた。
「泊まっていけば? 僕は別に構わないよ」
「そうする」
もうひとつのカップを持って、司が向かいに座った。司の部屋のテーブルには椅子が2脚しかない。
三佳は、夕方史緒が出かけた後、史緒に言われた通り定時までは留守番をして、その後司が帰ってくるのを待っていた。そして今は司の部屋でくつろいでいる。夕食は三佳が作って、食後のコーヒーは司がいれた。
三佳はいただきます、と言って、カップに口をつけた。
「司の見解は?」
夕食の間、三佳は昼間起きたことを司に聞かせていた。史緒と蘭の関係など、三佳以上に情報を持っているはずの司なら深く分析した意見が出てくると思ったのだ。
司はさらりと答えた。
「祥子がこのまま出て行くって言っても僕は止めないけど、史緒は困るだろうね」
色々な意味で、と付け加える。
多分、A.CO.の中で祥子以外の全員が、阿達史緒には三高祥子という安定剤が必要だと理解している。
恐らく史緒本人も気付いているだろう。
理性を保ち暴走させないように、些細なことで感情的にならないように。それには気取ってみせたり、見栄を張ったりする普段の心がけが重要になる。
史緒が祥子を挑発するのは、祥子に心を読ませないようにするだけでなく、自分自身にも平静を保たせる意味があるのだ。
「でも、…そうだね。史緒は謝らないよ」
それについては三佳も同意見だった。
「甘えてるんだ、あいつは」
史緒は祥子を必要としているくせに、祥子を留まらせるために謝ることさえできない。何らかの策を練って祥子の意志を動かせると自分を過信しているのだろう。ヒト一人の意志を曲げられると、大それたことを考えているに違いない。
ヒト一人の、意志を曲げられるなどと。
ご苦労なことだ。頭ひとつ下げるほうが、よほど楽なのに。その楽なことを、彼女のプライドがさせないのだろうけど。
でも、祥子には祥子のプライドがある。史緒はそのことを知るべきだ。
「きっと今の祥子には何を言っても無駄だろうね。一旦、冷めるのを待ったら?」
のんきにも司はそう提案した。
「う〜ん…」
「なに、三佳。口出すつもり?」
「どうしようかな、とは、思ってる」
「珍しいね」
「まったくだ」
司の言葉に三佳は素直に肯定した。
「祥子に考えさせる材料くらいは与えてやろうと思って」
そんなこと言っても、本当は三佳だって司と同じ。祥子が祥子の意志でA.CO.を辞めるというならそれを止めるつもりはない。
それもこれも、無自覚で鉄壁のプライドを持つ、阿達史緒のためだ。
本当に自分らしくないな。三佳は苦笑した。
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