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 最後の登校日は、卒業式の10日前だった。
 今日この日が終われば、あとは卒業式を最後にこの場所には近寄らなくて済む。卒業式を終えたらここには二度と来ない。三高祥子はそう誓っていた。
 都立佐城高等学校。
 担任の話を聞くだけの登校日が終わり、号令が済むと、教室の中は騒がしくなった。椅子を引く音に続いて始まる雑談。遊びに行く相談や、卒業後のそれぞれの進路、その不安や期待について。卒業間近に必ずあるサイン帳の回覧。このサイン帳について、祥子も数人に頼まれたがすべて断わった。この学校にいた3年間、クラスメイトの好意を無視してまで孤立を保っていた祥子に記帳を求める人は何を考えているのだろう。祥子としては、全く関わりのなかった他人に自分の住所や生年月日など個人情報を漏らすのはためらわれたし、何よりこの学校生活の時間を何かに残すのが嫌だった。
 祥子は3年3組の教室を出た。この3年間そうだったように、誰にも挨拶をせずに教室を後にする。残る1日、卒業式も、きっと同じように過ぎる。祥子の高校生活はそうやって終わるだろう。
 卒業した後は、生活の中心がA.CO.になる予定だった。生活のためにそれが一番良いことだし、そういう覚悟を固めつつあった。
 しかし先日、A.CO.の事実上のトップである阿達史緒に辞める宣言をした祥子だった。これは退職届を投げつけたようなものである。
 その後、史緒は何も言ってきてない。退職届けを受理したとも何とも。
 でも祥子はわかる。史緒は絶対、引き止めたりしない。祥子も、引き止めて欲しいなんて思ってない。後悔、してない。
 卒業後の経済設計を建て直さなければならないが、不安より大きなやる気が祥子にはあった。人間、土壇場に立てば胆が据わるものだ。A.CO.を辞める以上、外で働かなければならないのは必至だ。当然、有利な就職はできないだろうが、アルバイトでもパートでもいい。今からでも就職先を探す気でいた。人間関係についてはやはり最後まで気になるところだが、やらなければ生きていけない。最悪、クビになっても構わないくらいの覚悟で臨んでいかなければ。
 …そんな、自棄気味なやる気が祥子にはあった。

 そんなやる気を持って勇み足で、校門を出たときのことだった。
 何故だか。
「おーっす、祥子」
 指二本で敬礼の真似事をする。学生服姿の木崎健太郎が校門に背をかけて立っていた。
 学生服に編み込みの白いマフラー。派手なステッカーが貼られている学生カバンを脇に抱えている。佐城高ではほとんどの生徒が私服登校なので、校門前の健太郎のそのいでたちは異様に目立っていた。幾人かの生徒が振り返っていく。
 名指しされた祥子は足を止め、眉を歪めた。
「健太郎…?」
 祥子は驚くより先に目を疑っていた。この場所で、会うことが無いはずの人間だ。しかし校門のところで手を振っているのは確かに木崎健太郎だった。
「な…、こんなトコで何してんのよ」
 戸惑いながらも言った。
 2人の間を佐城高の学生が通りすぎて行く。
「何って、祥子に用があったんだよ」
「だからって…、わざわざここに来ることないでしょ?」
 祥子は周囲の視線を気にしながら声を抑えて言う。そんな祥子の態度を理解しながらも、健太郎は飄々とした態度でいつものように馴れ馴れしい口の利き方をした。
「だって、おまえ、事務所に来ねーじゃん。自宅の住所は知ってっけど、そっちに乗り込むよりは幾分常識的かと思って」
「…家に来たら警察呼ぶからね」
「おまえな…」
 祥子の発言は本気だ。その素気無い物言いに健太郎はうなだれた。しかしすぐに気を取り直して顔を上げると、
「とうとう、辞める宣言したって?」
 と、からかうような仕種で聞いてきた。
 健太郎にその気はないのだろうが、とうとう、という言葉が事態を軽視されているような気がした。
「そうよ。わざわざそんなことを訊きにここまで来たの?」
「ふ〜ん。いつもの喧嘩と同じ、ってわけじゃないんだな」
 軽く肩を竦める。
「史緒が謝るのを期待してるならやめとけよ。それがわかるくらいの付き合いはあっただろ」
 祥子はムッとした。
 史緒との付き合いは祥子のほうが1年も長い。健太郎にそんな風に言われたくはなかった。
「あんたに何がわかるの?」
 健太郎は(比較的)いい奴だが、日和見すぎるところがあると思う。社交的で、人当たりが良くて、───そうだ、祥子は健太郎が何かに腹を立てているところなど見たことがなかった。ひとつの意見に対し、同意できない場合は遠慮なく自分の見解をぶつけてくるがその様子は至って冷静だ。最終的な判断はその場の責任者に任せ、決定後は文句ひとつ言わず協力することができる。
 史緒は今まで一人で行っていた情報管理の業務を、割とあっさり健太郎に引き継いだ。篤志の話によると、しばらくは史緒が監査する予定だったらしい。健太郎の能力をかったのだろう、という話も聞いた。
 その健太郎が祥子に言う。
「おまえ、自分の能力を過信しすぎじゃねぇ?」
「どういう意味よ」
「史緒のこと、見えてないと思うぜ?」
「性格悪くて何考えてるか分からないっていうのは初めから知ってた。蘭を利用してた…っ、最低なやつだって、それ以外に何かあるの?」
「あいつは利用されてるなんて思ってねーよ」
「そういう性格なの、気づかないのよ」
「───それって、蘭にも失礼だろ? 蘭は史緒に信頼を持ってる。あいつの見る目を疑うのか?」
「……っ」
 祥子は口を閉ざした。
(…そうだ)
 蘭は初めからすべて知っていた。祥子をA.CO.に留まらせるために、日本へ呼ばれたこと。史緒に利用されてること。それでも、家族や友人や街を捨てて、日本へ来たこと。
 蘭の、あの盲目的な史緒への好意は、一体どんな過去によるものなんだろう。
 言葉を返せない祥子を見て、健太郎は溜め息をひとつ。
 視線を逸らし、右手でポリポリと頭を掻きながら呟く。
「祥子のちから、信用できねーからなぁ」
「ちょ…っ」
 祥子は顔を上げる。それは聞き捨てならない。
「私のことそんな風に見てたのっ?」
 健太郎の腕を掴んだ。その台詞は我慢できなかった。
 A.CO.で、このちからで稼いでいたというプライドがある。健太郎の台詞は祥子の存在を否定しているのと同じだ。それに、このちからを否定されるのは、今も昔も、祥子が一番怖れていることなのだ。
 泣きそうな顔に怒鳴られて、健太郎は動揺した。
「わりぃ、言葉が足りなかった」
 と、素直に謝る。彼のこういうところは真似できない。
「正確に言うと、祥子本人のことについて、祥子の能力はあんまり役に立たないぞ、と。───おまえが第三者を視た結果なら信じるよ。ただ、身近な人間が相手だと、おまえ、感情的になりすぎなんだ」
「感情的になるから何だっていうの? 今回のことは冷静になれってほうが無理よっ」
「結果、判断力が鈍る」
「余計なお世話。───言いたいことはそれだけ?」
「ああ」
 祥子に睨まれても健太郎はマイペースだ。祥子は視線を逸らした。
「じゃあ、早く帰って。…ついでに、事務所のパソコンから、私の連絡先、削除しといてよ。もう関係ないんだからいいでしょ?」
「そんな勝手なことできるか。史緒に直接言えって」
 と、笑みを含んで言う。
 史緒に言いたくないから、あんたに頼んでるのよ。
 と、言いかける。しかし、もちろん健太郎だって、そんなこと判っているのだ。
「ところで祥子」
 急に真面目な顔付きになって、健太郎は言った。
「…なによ」
 その視線に毒気を抜かれ、祥子も口調を改めた。すると健太郎は視線を左右させた。
「おまえと喋ってるだけでギャラリーしょわなきゃいけないのは何故なんだ?」
「───っ」
 祥子は口を歪ませて辺りに目をやった。
 今、初めて、自分達が注目を集めていることに気付いたのだ。
 ここは佐城高正門前。午前中2時間で用は済んだ3年生の下校ラッシュである。
 数十人もの生徒が校門から出てくる。普通ならそのまま駅の方へ流れていくのに、生徒達の大半は、校門前で立ち止まる2人の男女に気付き、目をやっていた。わざわざ足を止め、眺めている者もいる。立ち止まらないまでも、名残惜しそうに視線を残していく者、目を見開き驚きの表情で連れと噂話する者など、ちょっとした騒動だ。もう少しで人垣ができそうなくらい。
 その視線の先には、佐城高3年3組の三高祥子がいる。
 三高祥子はこの学校でちょっとした有名人だった。
 理由はいくつかある。まず彼女には目立つ理由があった。指定の制服はあるものの私服可なこの学校で、彼女はいつも制服姿だった。本人に自覚があるかは判らないが、かなり目立っていた。さらに三高祥子は3年間誰ともつるまずいつも一人だった。教室にいても一人席に座り、寝ているか外を見ているかしていた。ただ「大人しい」という言葉で片付かないのは、その態度が妙に堂々としているからでもある。
 誰も寄せ付けない言動と態度で陰口を叩かれることもあったようだが本人は気にしていないようだ。それから見目の良い顔立ちに惹かれ告白しかけた男子生徒が何人かいるらしい。実際、告白を実行した正確な人数は明らかになっていないが一人ではないらしい。
 2年生のときには佐城高新聞部主催全校アンケートにおいて“この人のデータが知りたい!”部門で校内第2位だった。その後、三高祥子のクラスメイトである新聞部の部長が粘り強い交渉をしたらしいが、結局、彼女の紙面インタビューは実現しなかった。
 それらを含め良くも悪くも三高祥子は有名人だった。
 その三高祥子が、卒業を目前にした今日、他校の男子生徒と絡んでいるのだ。これほど珍しいものはない。しかも何やら不穏な空気なので、痴話ケンカか?と興味深い見世物になっていた。

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