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『おまえのことも嫌いだ』
 昔。幼い頃。
 目の前でそう言われたことがある。
 揺るぎの無い声。
 言葉だけじゃない、体全身で表した剥き出しの敵意。
 あからさまな迷いのない意志表現。
 不思議に思った。あの子とは言葉を交わしたことさえ、ほとんど無かったから。
 当時の私には誰かとつるむという思想も常識も無かったから、いつも一人で居た。ほとんど声を出さなかった。同じ家に住む兄と顔を合わせたくなくて、いつも部屋に篭っていた。
 だからあの子とすれ違ったことも、数えるほどしかない。
 だから、「嫌い」という、特別な感情を向けられるなんて思ってもみなかった。
『そう』
 と、私は答えたと思う。
 黒猫を抱く腕に、力を込めて。



 史緒は先程までベッド代りにしていた黄色いソファに座り直し、うつむき、頭が眠気から覚めるまでの心地よい時間を漂っていた。
 体に巻きつけた毛布を剥がせないでいるのは室内が寒いからだ。着ている服が昨日のままなのは、着替えもせずに寝てしまったから。
 三佳はついさっき帰ってきて、今はキッチンで何やら物音をたてている。その音はとても遠くで聞こえていた。
「……」
 夢に見ていたわけではない。でも史緒は今、昔のことを思い出していた。
 おまえのことも嫌いだ
 そう、言われたときのことを。
 あの子がどんな表情でその言葉を吐いたのか、今も思い出せる。
 声に迷いは無かったけど、震える腕と膝。
 おまえのことも嫌いだ。
 そう言われたとき。…あのときの気持ちを、何と言うのだろう?
 肺が固まって、ぎこちない伸縮を繰り返しているような息苦しさ。喉の奥にポケットができて、そこに唾が溜まっていくような気持ち悪さ。ネコを抱き締めたときの安心感。
 史緒は寝起きで乱れている髪を右手で抄いた。その一房を指先に絡ませて、ずいぶんと伸びた黒髪を見つめる。
(どうして突然昔のことを思い出したのかしら?)
 その答えはすぐに分かった。
 三高祥子の顔が脳裏を過ぎる。史緒に面と向かって「嫌い」と言った2人目の人物。
 祥子に嫌われるのは全く構わなかった。それは計算上のことでもあったから。
 そして数日前、祥子は耐えられなくなったのか出て行ってしまった。
 きっと戻らない。
 昔、あの子も、史緒の前から去っていった。
「史緒っ! 早く起きろ、朝ごはん」
 キッチンから三佳の声が掛かった。
 テーブルに置いてあった料理を温めてくれたらしい。いい匂いがした。史緒は軽く頭を振って、ゆっくり立ち上がった。
「…食べる」
「食べるのは当たり前。早く食え」
「はーい…」
 働ききらない頭をどうにか支えて、史緒はソファから立ち上がる。
 そのとき襟元のボタンがいくつか外れていることに気がついた。寝る前に息苦しいので自分で外したのを覚えている。史緒はそれをきっちり掛け直した。またすぐに着替えると判っていても。

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