キ/GM/21-30/25
≪1/10≫
『おまえのことも嫌いだ』
昔。幼い頃。
目の前でそう言われたことがある。
揺るぎの無い声。
言葉だけじゃない、体全身で表した剥き出しの敵意。
あからさまな迷いのない意志表現。
不思議に思った。あの子とは言葉を交わしたことさえ、ほとんど無かったから。
当時の私には誰かとつるむという思想も常識も無かったから、いつも一人で居た。ほとんど声を出さなかった。同じ家に住む兄と顔を合わせたくなくて、いつも部屋に篭っていた。
だからあの子とすれ違ったことも、数えるほどしかない。
だから、「嫌い」という、特別な感情を向けられるなんて思ってもみなかった。
『そう』
と、私は答えたと思う。
黒猫を抱く腕に、力を込めて。
史緒は先程までベッド代りにしていた黄色いソファに座り直し、うつむき、頭が眠気から覚めるまでの心地よい時間を漂っていた。
体に巻きつけた毛布を剥がせないでいるのは室内が寒いからだ。着ている服が昨日のままなのは、着替えもせずに寝てしまったから。
三佳はついさっき帰ってきて、今はキッチンで何やら物音をたてている。その音はとても遠くで聞こえていた。
「……」
夢に見ていたわけではない。でも史緒は今、昔のことを思い出していた。
おまえのことも嫌いだ
そう、言われたときのことを。
あの子がどんな表情でその言葉を吐いたのか、今も思い出せる。
声に迷いは無かったけど、震える腕と膝。
おまえのことも嫌いだ。
そう言われたとき。…あのときの気持ちを、何と言うのだろう?
肺が固まって、ぎこちない伸縮を繰り返しているような息苦しさ。喉の奥にポケットができて、そこに唾が溜まっていくような気持ち悪さ。ネコを抱き締めたときの安心感。
史緒は寝起きで乱れている髪を右手で抄いた。その一房を指先に絡ませて、ずいぶんと伸びた黒髪を見つめる。
(どうして突然昔のことを思い出したのかしら?)
その答えはすぐに分かった。
三高祥子の顔が脳裏を過ぎる。史緒に面と向かって「嫌い」と言った2人目の人物。
祥子に嫌われるのは全く構わなかった。それは計算上のことでもあったから。
そして数日前、祥子は耐えられなくなったのか出て行ってしまった。
きっと戻らない。
昔、あの子も、史緒の前から去っていった。
「史緒っ! 早く起きろ、朝ごはん」
キッチンから三佳の声が掛かった。
テーブルに置いてあった料理を温めてくれたらしい。いい匂いがした。史緒は軽く頭を振って、ゆっくり立ち上がった。
「…食べる」
「食べるのは当たり前。早く食え」
「はーい…」
働ききらない頭をどうにか支えて、史緒はソファから立ち上がる。
そのとき襟元のボタンがいくつか外れていることに気がついた。寝る前に息苦しいので自分で外したのを覚えている。史緒はそれをきっちり掛け直した。またすぐに着替えると判っていても。
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