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 東京都O区。
 工業団地の片隅にその企業は自社ビルを持つ。
 鰍i.S.S.
 中堅の機械メーカーで、主に開発技術の提携・サポートを行う。取引先の中には名の知れた企業も多く、最先端技術の開発にも参入し業績と実績を伸ばしていた。
 戦後の日本を支えた町工場がそのまま成長した形であり、表舞台に出ることはないが、今も日本の技術を支える数ある軸のひとつだ。
 そのエントランスホール、大きな自動ドアを、三高祥子はくぐった。
 すると、受付の女性がすぐに反応し、椅子から腰を浮かせ、手を組み丁寧に頭を下げた。
「三高さん、こんにちは。いつもお世話になっております」
 その際、祥子の服装をちらりと横目で見る。オフィシャルでない洋装を意外に思ったのだろう。悪気は無いようだが、祥子は少しだけ居心地の悪さを味わった。
(やっぱりスーツで来たほうが良かったかな)
 淡いオレンジのワンピースにジーンズのジャケット。場にそぐわない祥子の格好は必要以上に目立ち、エントランスを行き交うスーツ姿の人々から少しの注目を集めていた。
 それでも気を取り直して、祥子は受付嬢に向かう。
「新居社長と面会したいんですが」
 と申し出ると、受付嬢は「え?」とわずかに目を見開いた。
「申し訳ございませんが、社長は現在会議中でして席を空けることができません。失礼ですが、お約束時間を確認させていただいてよろしいでしょうか…」
 恐縮する受付嬢に祥子は慌てて手を振る。どうやらいつもの仕事だと勘違いされたようだ。
「あ、いいんです。今日はアポ取ってないので、ここで、待たせてもらいたいんです」
 祥子の言葉に、受付嬢は安心したように微笑んだ。
「では応接室へご案内致します」
「いえ、あの…仕事ではないので…。新居社長にお時間いただけるか、聞いてもらえます?」
「承りました。社長へはすぐに通知させていただきますが、会議の終了予定は1時間後です。ご都合よろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
「では、お好きな席でお待ちください。ただいまお飲み物をお持ち致します」
 会話の一段落に、祥子は溜め息をついた。



「いっつもそんな服着て、暑くない?」
「露出度高いよりはマシだと思うけど」
 夏にそんな会話をしたことがあった。
 8月の終わり、残暑が厳しい頃。30℃を越す連日の真夏日に茹だっていた頃。そんな日でも、史緒はシルバーリングを喉まで上げるファスナーの、襟足の高い服を着ていた。もちろん半袖だったが、長い髪を下ろしていることもあり首まわりが暑そうだった。
 暑さ故、八つ当たり気味の祥子の台詞に、史緒はしらっと答えた。いつもと同じように、素っ気無い受け答え。史緒は何事もなかったかのように仕事に戻り、祥子は史緒への八つ当たりに自己嫌悪した。その会話はそこで終わって、それきりだった。
 史緒はいつも、襟足の高い服を着ている。
 それに祥子は、史緒が髪を上げているのを見たことが無い。
 ───史緒は煙草が嫌いだ。
「禁煙2ヶ月め…」
 と、木崎健太郎(未成年)が嬉しいのか辛いのか判らない発言をしたのはついこの間のこと。
 A.CO.に入る際に、2つの規定があった。
 ひとつは、無断でメンバーのプライベートを探らないこと。
 もうひとつは、禁煙。

 ───…ああ、やっぱり。
 何故だか祥子は、ひどく納得してしまった。
 誰にでも傷はあるもの。
 心や精神の古傷、癒せずに時間だけが過ぎてしまったもの。手放せない溝。薄く消えない痣。忘れていたつもりでも、ときどき訪れる、痛み。その度に必死で忘れようとする記憶。
 たまに、目に見える傷を持つ人もいる。
 初めて史緒と会ったときから、彼女の無表情さが嫌いでたまらなかった。何を言っても傷つかない無神経さが嫌いだった。
 痛みを持たないから通じないのかと思ってた。
 伝えられないもどかしさにイライラしていた。でも違った。
 やっぱり、史緒も傷ついてたんだ。傷ついて、ここまで来た。
 当たり前だけど。傷ついてないなんて思ってないけど。
 体に残る傷痕。
 哀れんでるんじゃない。同情してるんじゃないの。
 ただ、祥子が想像もしなかった痛みを、史緒は知ってるということ。
 そんな当たり前のことに、気付いたというだけのこと。
(史緒のこと、教えてくれる人に会いたい)
 蘭には頼りたくない。誰を訪ねればいい?
 篤志や司じゃなくて、もっと遠くにいる、でも懇意な人間。
 誰?
(───誰?)
「祥子」
 名前を呼ばれてはっとした。顔をあげる。
 ロビーを横切り、近寄る人影がある。白髪で痩せ型、スーツ姿の老人。杖をついているが不安定さはなく、ゆっくりと歩いてくる。
 新居誠志郎、63歳。この会社の代表取締役社長である。
 祥子はソファから立ちあがり、頭を下げた。
「すみません、突然に。…あの、聞きたいことがあって」
 無礼は承知している。現在、夜8時。新居はまだ働いている時間だと知っているけど。
 新居は仕事には厳しい。過去、少なからず怒鳴られたことがある。(しかし、新居の専属運転手の証言によると、祥子は甘やかされている部類に入るらしい)
 だから今日は叱られることを覚悟で祥子はここまで来た。しかし。
「いいよ。こちらも話があったんだ」
 と、新居は祥子の向かいに腰掛けた。隣りに杖を立てかけ、祥子にも座るように示すと、新居は足を組んで一度嘆息した。
 すぐさま受付の女性が日本茶を持ってきた。新居は軽く頷きそれを礼とした。
 それを一口、口に含むと、
「A.CO.辞めたって?」
 と、唐突に何気なしに言う。
 は? と祥子は眉をひそめた。
「誰に聞いたんですか」
 ちょっと…いやかなり、情報が早すぎるのではないか?
 そして新居はあっさり答えた。
「阿達だよ。5日前」
 ぴく、と祥子の顔がひきつる。一瞬で、史緒への怒りが再来した。こぶしを握り締める。
 5日前と言ったら、祥子がA.CO.を飛び出した日だ。その日のうちに史緒は新居へ連絡を入れたことになる。
(ちょっとそれって早すぎない? そりゃ、一方的に辞めるなんて言ったのは私だけど、史緒は私に謝ろうとか少しも考えなかったってこと? 史緒が謝ったら私が考え直すとか思わなかったの?)
 と、祥子は勝手なことを考えた。
「こらこら」新居は祥子の怒りを見て取り、諭した。「本当なら、辞める前に祥子が私へ挨拶に来るべきところだ。阿達を恨むのは筋違いだよ」
 うっ、と祥子は喉を詰まらせる。
「今日、その挨拶に来てくれたのなら嬉しいが、別件なんだろう?」
「…すみません」
 祥子は身を小さくさせた。
 新居の言ったことは正しくて、常識でさえある。祥子は自分の非常識さに自己嫌悪し、史緒のフォローに感心した。

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