キ/GM/21-30/25
≪3/10≫
「阿達のところ辞めるなら、うちにおいで」
「は?」
「高校は卒業だろう? 祥子にその気があるなら雇うよ」
突然の申し出に祥子はパニックして、慌てて新居の言葉を遮った。
「あの…、私、今日はそういう話をしに来たわけじゃ…」
「今日でも後でもいい。現実問題は避けて考えられない」
「───」
現実問題。確かに、感情論を抜いて考えればそこに詰まれるのは金銭的な問題が多くを占める。祥子には生活費の宛てが無いわけだから、こんな風に迷っている場合では無いのだ。本当は。
「仕事の駒として、祥子は戦力になる。それ以上の仕事は要求しないし、その報酬以外に私が与えられるものは何もない。阿達からもらっていたのは報酬だけかい? ───よく考えなさい」
低い声でゆっくりと語られる新居の言葉は、自然にすんなりと祥子の胸に届く。だからすぐに解ってしまった。新居の、言いたいこと。
すんなりと胸に届いたけれど、素直に受け止めることができず、祥子は失笑した。
「新居さんも…、結局、史緒を庇うんですか」
かなり卑屈な言い方になってしまった。もう言葉になってしまったから取り消しはできない。
「そうじゃないよ。阿達が君の譲れないものを傷つけたなら、阿達が謝るべきだ」
新居は穏やかに言う。
「手順を間違えるな。傷つけられたからといってその場所を離れてしまったら、祥子はもっとたくさんのものを失う。より良い関係になりたいなら、阿達を謝らせるほうへ努力しなさい。阿達のほうも祥子と出会って成長してるはずだ」
「…いい関係になんて、なりたくありません」
「それは嘘だ」
「───」
祥子の不安定な発言は一言で撃沈されてしまった。
祥子は言葉を失う。
新居の言う通り、A.CO.に居たメリットは賃金だけじゃない。言葉で表せるもの、表せないもの、沢山あったと思う。いくつかの喧嘩もあったし、楽しいこともあった。何よりA.CO.のメンバーは全員、祥子の能力を受け入れている。そしてその環境が、たった1年で祥子を大きく変えた。
どうしても気に入らないことは意見してきたし、譲れないことは納得するまで言い合ってきた。
今まで、こんな風に自分を置ける場所があっただろうか。
初めて、仲間と呼べる人達と出会った。
たまに、皆の普段見せない面を知ると辛くもあったし、一方で嬉しくもあった。感情を表に見せるのは付き合いが長い証拠だ。あの史緒だって一面しか見せないわけじゃない。彼女の気まぐれな優しさに、たじろいだりもした。
(───あれ)
そこまで考えて、祥子はある予感に思い立った。
「…新居さん」
「ん?」
「さっき、うちにおいで≠チて、言いましたよね」
「ああ」
「もしかしてそれ、史緒が言い出したんじゃありませんか? ───史緒が、新居さんにお願いしたんじゃないですか?」
声が震えた。言っている途中で、自分の言葉に確信が湧いてきて、自然と語尾が強くなった。
根拠はなかった。
ただ、史緒はやりそう、と思い立っただけだ。それだけなのに、この確信めいた自信はなんだろう。
「察しがいいね」
新居は祥子を誉めた。
「はっきり言ってくださいっ」
「口止めされてるから、イエスとは答えられないんだ」
ガタンッ
祥子はソファから立ち上がっていた。
「───馬鹿みたい…っ」
震える声で祥子は吐き捨てた。新居の前だったが別に構わなかった。
「誰が? 私がかい?」
新居は優しい声で尋ねる。
「史緒です…っ」
本当に、馬鹿みたいだ。
史緒も。そして私も。
史緒は祥子が事務所を飛び出した後、新居のところに手を回していた。祥子がA.CO.を辞めても経済的に困ることが無いように。祥子がこのちからの使い道を失うことが無いように。
いつもと同じ、裏で手を回していた。
(何なのよ、もう…!)
目の前に史緒が居たら、殴っていたかもしれない。史緒への怒りを込めて。
だって私は言葉を知らない。
(言ったって通じないのよっ! 史緒にはっ!)
───どんな言葉をぶつけても、きっと史緒には半分も伝わらない。理解してもらえない。そんな気がする。
いつもそれが歯痒かった。
解ってもらえない歯痒さが、史緒への憤りとなっていた。
ねぇ、どうして解らない?
私はあんたの性格の悪さをよく知ってる。───でもそれを責めてるんじゃない。
史緒の性格の悪さを責めてるんじゃない。
わかる? それを責めてるんじゃないの。
(どうして史緒は、他人を信用できないんだろう)
思い通りにしたいとき、誰も知らないところで動いて、裏で画策しなければやれないんだろう。
どうして他人を頼れないんだろう。どうして直接伝えられないんだろう。
史緒の願いを聞いて、史緒のために動いてくれる人もいるのに。
「で、祥子は何が聞きたいって?」
「───」
新居が優しく尋ねた。
祥子は顔を上げ、情けない顔を新居に見せる。小さく、呟いた。
「史緒が何考えてるのか、わからないんです」
実は今日、史緒のことを訊きに新居の所へ来たけど、具体的な質問は何一つ用意していなかった。
そして今、口にしてみて、ああ自分の訊きたかったのはこれなんだと、初めて理解した。
「何を目的にメンバー集めて、あんな仕事してるのか…史緒が目指すもの、私、知らないんです」
他の連中は知ってるんだろうか。だから、あの場所に集っているんだろうか。私だけ知らないから、史緒のことを素直に嫌えるんだろうか。
知ってれば、許容範囲が広がる。挑発するような言葉にいちいち反応して心を痛めずに済むのに。許してあげられるのに。
知ってれば、史緒の言動も少しは理解できるのに。
「残念ながら、私はその質問に答えられないね」
「それも、口止めされてるの?」
「知らないんだよ、単純に」新居は肩を竦めてみせた。「忘れてないだろうが、私と阿達は単なる取引き相手だ。だから───そうだね、経営者としての阿達のことなら、少しは教えてあげられる」
祥子は興味深そうに、背筋を伸ばし新居を見た。
「例えば、祥子の失態は上司である阿達のせいになる。それは考えたことがあるか?」
新居は返事を待たなかった。「それが阿達の立場だ」
「阿達はあの若さで君達の事務所を支えているけど、今までもちろん波風が無かったわけじゃない。多分、君達にそういう面を見せてないだろうが、阿達がA.CO.を設立してからの2年間、危うい取引もあったし、少なからず信用を下げたこともある。
阿達はそれを最小限に抑えてきた。起こり得るトラブル、派生するエラー、発生するQコスト、工程遅れ、すべて事前にシミュレートして、各項目に対応できる対策を用意しておく。それを自らに課して、実行してきた。───阿達は決して天才じゃない。誰も見ていないところで最大の努力を惜しまない、ただの見栄っ張りだ。わかるかい?」
祥子は首を横に振ることさえできなかった。新居は二言で言う。
「あのプライドが、すべてを支えている」
A.CO.の営業、三佳と暮らしてること。あのメンバーで仕事ができること。仕事が成り立つこと。
皆が、あの場所にいられること。
史緒の背負うものを初めて実感して、祥子は不安になった。
「わ…わかりません。…そうまでして、史緒が目指すものは何?」
忘れてるわけじゃない。阿達史緒は今、17歳の未成年なのだ。
祥子の心中も構わず、突然、新居はくすくすと思い出し笑いをした。
「史緒のこと知ってる人間なら、一人、紹介できるけど。会ってみるかい?」
「え?」
「今、呼ぶから、そいつに同じ質問をしてみるといい」
と、言うが早いか、新居は懐から携帯電話を取り出し、ボタンを操作を始めている。
「あの…、新居さん?」
祥子の呼びかけを無視して、目の前で新居は電話を掛け始めた。
「───もしもし、新居だ。…あぁ、久しぶり。ところで、今すぐこっちに来れないか? 紹介したい人間がいる」
と、久しぶりに話す人物に向かって、おそらく最短で本題を切り出した。
「仕事? 梶に押し付けておけばいいだろう」
などと言っている。自分の仕事にはとにかく厳しい新居がこんな風に言うなんて、祥子は少々驚いた。
そして新居はわざとはっきりと、こんなことを言った。
「阿達史緒関連だ、まさか断わらないだろ?」
相手の人物が何か言っているのが祥子にも聞こえた。
「今、丸の内にいるなら1時間あれば来れるな? じゃあ」
と、一方的に電話を切ったようだ。
「…新居さん?」
電話を切ると同時に立ち上がった新居に、祥子は慌てて声をかけた。
「私は一度仕事に戻る。彼が来たら紹介くらいはするから、祥子も適当に暇を潰していなさい」
(彼?)
「誰なんですか?」
「すべて答えるとは限らないが、阿達のことをよく知っている人物であることは確かだ」
そう言うと新居は杖を持ち、エレベーターの方へ歩き出してしまった。
残された祥子は予期せぬ展開に戸惑うばかりで、その背中に声をかけることもできない。
この場合は苦情を言うべきなのか、礼を言うべきなのか。
一体、どちらだろう。
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