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 12月15日だった。時間は23時15分。
 古いアパートの部屋にインターフォンの音が響いた。(誰だよ、こんな時間に)とありきたりなことを思いながら玄関へ向かう。ドアを開けると、ぐあぁと叫びたくなるような冷たい風が入ってきた。せっかく、部屋が暖まっていたのに台無しだ。
「あん?」
 どういうわけかそこには、頭1つぶん俺より背が低い子供が、下を向いて突っ立っていた。男だ。
 この季節に上着もなくセーター一枚。ジーンズに古びた運動靴。手荷物は何もなし。少年の背後、辺りは当然真っ暗で、静まりかえっている。そんな時間帯にこのお子様は一体どのようなご用件があると仰るのか。
(何だ? このガキ)
 物乞いなら他でやってくれ。
 少年からの用件なり挨拶なりを待っていると、少年は勢い良く顔を上げて、にかっと笑ってみせた。
「泊めてくんない?」
「!」
(あ───)

 弟だった。


 その後、部屋に来ていた女を帰すのに要した時間15分。アンド、タクシー代。(またフラれるかなぁ)大した問題ではないが。
「おまえはとにかく風呂入れ!」
 弟を風呂に放り投げる。後から着替えとタオルもブチ込んでおいた。
 次に、関東最北端、群馬の実家に電話をかける。
「もしもし、母さん? ヤツ、こっちに来てるんだけど。───いいよ、理由はだいたい分かってる。…あー、いいって! 母さんは気にしなくていいよっ。とにかく今日はこっち泊めるから! ああ、うん。明日には帰すよ、じゃあ」
 投げ遣りな口調で一方的に結論づけた。
 弟がここへ来た理由でありながら、それを自覚していない両親と長話しをするのはあまりにも不毛だ。俺自身の精神衛生の為にも、電話はすぐに切り上げた。

 俺は東京で一人暮らし。就職上京で社会人生活2年目。
 今、風呂に入っている弟は、地元群馬で中学3年生。
 俺ら兄弟は、10近く年が離れていることもあり、喧嘩も無く仲良く育った。模範的な優等生でも代表的な劣等生でもなくごく普通の若者だった俺だが、面倒見の良い兄だったことは自他共に太鼓判を押すところだ。
「女のヒト、帰っちゃったけど良かったの?」
「おまえは気にしなくていいの」風呂から出て来た弟は、頭にタオルを乗せたまま顔を見せた。「髪、ちゃんとふけ。今、茶ぁ入れるから、ここ座ってろ」
 台所へ向かおうと立ち上がり弟とすれ違ったとき、「?」俺は何やら不思議な違和感を感じた。
「なに、もしかして…背ェ伸びた?」
 前に会ったのは夏だったはず。そのときに比べて視線の高低差が縮まったような気がする。それに筋肉がついて体つきがたくましくなったように見える。
「今、165てん6。兄貴、追い越すの目標だもん、俺」
 にやりとかわいくない笑みを見せて弟は胸を張った。その表情は心配していたより元気そうで、俺は内心でほっとした。
「おーお。せいぜい悪あがきしろよ。でもな? 例え身長抜かれても、俺のように心が広くかつモテるイイ男になるには、あと10年修行が必要だぜ」
「兄貴、外ヅラだけは異様にいいもんな。ほんと。呆れるほど」
「寒空の下に放り出してもいいんだぞ」
「ごめんなさい。もう言いません」
 とりあえず俺は日本茶をいれてやった。
「せめて上着くらい着てこいよ。風邪ひくだろ」
「いきおいで電車飛び乗ってきたから」
 おどけたのか茶が熱いのか、弟は舌を出して笑う。俺は胸から大量の息を吐いた。
「───父さんと母さん、相変わらずか?」
「まぁね」
(あー、もぅ)
 鬱になる。
 うちの両親はすこぶる仲が悪い。いつも喧嘩ばかり。喧嘩するほど…と茶化せるような2人じゃない。父は母をなじり、母は父をなじる。傷の付け合い。飽きもせず毎日、口汚ない罵り合い。たまに母は顔に青アザを作っているが、それでも見苦しい言い争いは子供を無視して繰り返された。
 しかし父は父、母は母だ。見捨てるわけにはいかない。2人の言い争いに巻き込まれそうになったことは多々あったが、2人を立て、俺は中立を守っていた。息子を味方にしようとするそれぞれの醜悪なアプローチはすべて無視。俺には弟を守る役目があった。
 両親のそんな喧嘩を目の当たりにするのは本当に辛い。目と耳と胸が痛くなる。ギスギスした雰囲気の家に濁った空気が流れる。吐き気がするほどだ。
 同じ家の中にいる息子2人は互いに寄り添って生きてきた。
 「自他共に太鼓判な面倒見の良い兄」が育てた「弟」は、育てた俺が言うのもなんだが、グレることもなく結構いい奴に育った。自分の家庭環境を逃避することなく理解し、それを外に見せない、持ち出さない強さがある。(まぁ、俺がそう躾たのだが)根は明るいようで、家の外ではよく笑い、誰にでも屈託無く話し掛ける。ただ、家の中ではいつも無口で、耳を塞いでいた。

 俺は就職を理由に家から出た。当時、中学1年生だった弟にとって、俺が拠り所なのはわかっていたのに。あの家の中で我慢している自分が馬鹿馬鹿しくなり、逃げ出すための就職。残された弟がどんな毎日を過ごしているか、それを考えると胸が痛かった。
 盆と暮れに帰省しても、弟は愚痴ひとつこぼさず、俺を歓迎してくれた。出来た弟だと思わんか? 本当に。まったく。
 今日だって理由は口にしないけれど、電車に飛び乗ってきたというのは両親のいつもの喧嘩が原因だろう。弟が俺の部屋を訪れたのは今日が初めてだ。今までキレることもなかったこいつの忍耐力には尊敬さえ覚える。
 忍耐? いや、弱音を吐けないだけか。
「おまえ、受験生だろ。明日、学校は?」
「期末は終わったから、休んでも問題なし」
「志望校、決めたんか?」
「M高」
「お。レベル高いじゃん」
「それは兄貴の時代の話。今はそうでもないって」
 どちらにせよ、受験生がこんな所で遊んでる場合じゃないのはわかる。もっとも、実家の両親は、弟が受験生だということを意識していないだろうけど。
「それ飲んだら今日は寝ろ。明日、仕事終わったら夕食奢るから、そのときゆっくり話そうぜ。9時頃、駅まで送るから、ちゃんと帰れよ」
「───」
「どした?」
「帰りたくない」
 その気持ちはよくわかる。この弟にここまで言わせる家庭環境と思うと滅入る。
 溜め息。しかしすぐに気を取り直す。
 弟の頭を掴んで、容赦無くかき回した。
「とにかく今日は寝る! 明日にする! おまえも今日は何も考えんなっ」
 ここに来てまで考え込んでしまうようでは、ここへ来た意味が無い。
 どうにかしてやりたい。
 そう思っても、結局何もできない俺だ。

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