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 翌朝。
「これ、いじってていいぞ」
 仕事に出る前、俺は弟に向かって、デスクトップのパソコンを指差した。
「パソコン。使ったことあるか?」
「授業で絵ェ描いたくらい」
「上等。なら、基本操作はわかるな。本棚に解説本や説明書もあるから、読みながらでも遊んでろ」
「どんなことできんの?」
「使い方は当人次第。コレ、パソコンの鉄則」
 そう言い捨てて、俺は仕事場へ向かった。
 夕方、帰ってきた俺は「う」と言葉を詰まらせた。パソコンにかじり付いている弟に「そこから始めるかい」とツッコミたかった。
 モニタを覗き込むと、インターネットブラウザとtelnetが立ち上がっていた。これは2つの通信方式でネットワークに接続していると思えば良い。前者は最近普及したインターネットのhttpプロトコル、後者は黒い画面にコマンドを打ち込むタイプで、今時の一般ユーザーはあまり使わないtelnetプロトコル。と、まぁ、しかしこんな説明は蛇足中の蛇足だ。
 どうやら弟はアプリケーションソフトより、パソコンの通信に興味を持ったようだった。
「おい、変なことしてないだろうな? pingコマンド打っただけで攻撃し返してくる馬鹿も世の中にはいるんだぜ」
「多分、大丈夫。本の例題通りに、そこらのサーバに向けただけから」
 俺は絶句した。たった一日でいっぱしの口効きやがる。
 でも弟は楽しそうだ。俺とは違いアウトドアな奴かと思っていたが、それは勘違いか?
「何の本見てるんだ?」
「んー、これ」
 モニタから目を離すのも惜しいのか、抱え込んでいた本の背表紙だけをこちらに向ける。
 タイトルは「セキュリティと通信の初歩」。
 俺は苦笑した。
「ハッカーでも目指すか?」
「なにそれ」
「いや…うん」
「最初に取った本がこれだったんだ」
 その一冊が方向を決めたわけだ。他にも初心者向けの本は沢山あるのになぁ。
 しばらく後ろで観察していると、この弟はなかなか飲み込みが早いと気づいた。本を読みながらでキー入力も遅いが、手順は正確で理屈も分かっているように見える。
「…中々やるじゃん」
 素直に感嘆する。
「ねぇ。おれ、コレやってみたい。プログラミング」
 それは俺の本業だ。
(何か、妙な方向になってきたな)
 弟には暇つぶし用にパソコンを貸しただけなのだが。弟はまるで自分にぴったりのオモチャを与えられたかのようにのめり込んでいる。早く先が知りたくてワクワクする、知識を得ることが楽しくてしょうがない、…そんな気持ちは知っている。覚えがある。
「本気でやるなら教えてやる」
「マジでっ?」
「途中でやめるって言ったら、罰金な」
「のった!」
 パンッと2人の手が鳴って、久しぶりに兄弟の息を感じた。
「プログラム言語はいくつもあるんだ。多分、C言語に落ち着くだろうけど、初心者はBASICが無難かな。この本読んでみ」
 ちなみにウィンドウズはC言語で書かれている。さらに超蛇足だが、C言語はコンピュータ言語の略ではなく、B言語の次という意味でCなのだそうだ。
 いくつかの心得と、いくつかのアドバイスをしているうちに、俺もすっかりのめりこんでしまった。
 気付くと時間は夜11時を過ぎており、俺はまた実家に電話をするハメになった。
「ごめん。もう一泊させるから…」
 自分でも呆れる。

 何泊かさせている(オイオイ)うちに冬休みに入ったらしく、結局、ここで弟と年を越した。
 弟は驚くほどの速さで知識を飲み込んでいく。俺は教えられることは何でも教えた。しかし弟が受験生だということもちゃんと思い出し、途中、警告もしたが弟は知らん顔だ。3ヶ月後、激しい後悔に襲われなければいいが。
 1月6日。新学期前夜。
「半月も居座っちゃってごめん。でも楽しかった」
「そりゃ良かった。また、いつでも来いよ」
「うん」
「受験もがんばれよ」
「ぐあ、それは言わないお約束」
 笑いながら、駅で弟と別れた。
 電車に向かって手を振るのは少し気恥ずかしい。でも弟への喝を込めて、俺は最後まで手を振っていた。
 弟も歯を見せた笑顔で、Vサインを返していた。
 両親のことが少なからずストレスになっているだろうけど、それが少しでも解消できたなら俺としても嬉しい。
 俺は逃げてしまったあの家で、弟は少なくてもあと3年間は過ごすわけか。
(───すげー…疲れそう)
 大丈夫か? アイツ。
 と、ちょっと心配になる。
(高校卒業したら、こっち来ないかな。そしたら俺も面白い)
 まぁ、ヤツのすぐ次の試練は高校受験だ。両親のことなど気にせずにがんばって欲しい。



 1週間後。
 玄関を開けると、弟が立っていた。褒めるべきかどうか、今度は上着を着ている。
 けど、今日は笑ってなかった。
「泊めてくんない?」
 その表情には明らかな影。無理矢理笑おうとするのが分かって、俺は歯を食いしばった。
「───っ」
 ブチ切れたね。
(ああ、もうダメか)と思うと同時に(ふざけんな)と思った。ハッカを口にした後のような空気が胸にいっぱいになる。
 次の行動は感情任せだ。俺は弟に返事はせず、部屋の中に戻った。電話を取る。短縮ナンバーは00。
 3回のコールの後、俺は涙が出る程の声量で怒鳴った。
「いい加減にしろ!。もういいッ、健太郎は俺が育てる!」
 受話器を投げ捨て、振り返ると今度は弟に怒鳴った。
「おまえは今から受験校探せ。この圏内で! ネットでも結構でてるからっ。足も使え! 下見でも何でも行ってこい!」
「は…? 兄貴?」
「もう家のことで我慢なんかするなっ。ここで暮らせ! おまえがよくても俺が嫌だ!」
 受験という人生の岐路に立つ子供に、それ以外の心労を本人達が与えるなんて、ふざけるなだ。
 これは怒りじゃない。
 子供のことを考えられない両親に怒ってるんじゃない。
 ただ、情けないのだ。涙する程に。
 自分を育ててくれた親を蔑むなんて、誰だって嫌だ。できるなら尊敬させて欲しい。素直に感謝をしたい。
 そういう気持ちを裏切られるのは本当に辛いから。
 そういう場所に、弟を置いておきたくなかった。
「おまえが一人前になるまで俺が育ててやるッ。おまえはおまえがやりたいことで一人前になってみせろ。わかったな!」
 弟は面食らった表情で声が出せないようだが、目と口を開けて笑って見せた。よしっ、と俺はガッツポーズを取る。
 今夜、また、実家に電話しよう。多分、電話にでた父親は、俺の台詞を本気で捉えてないだろうし、説明が必要だ。それに落ち着いたら実家へ顔を見せに行こう。話し合いが必要だろう。
 弟の学校関係の手続きや受験準備。忙しくなるな。それに。
 冬休みの続きで、弟には教えたいことが沢山あるんだ。
「おい、健太郎ー。メシ、食いに行くぞー」
 まずは腹ごしらえだ。

end

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