キ/GM/21-30/27
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「三佳」
背後から自分の名を呼ぶ声がしたので、少女は振り返った。
島田三佳はひとり、A.CO.の屋上にいた。風が強い。
この建物で暮らし始めて2年経つ三佳は今年11歳になる。2年経つということについて、もし三佳本人に質問したら、「史緒の面倒を見始めて2年か」としみじみ溜め息を吐くだろう。そして引き合いに出された史緒はそれを聞いて、何か思うところがありながらも黙って苦笑するに違いない。
後ろからやってきたのはその阿達史緒だ。史緒は今年18歳。三佳の同居人でありA.CO.の所長を務めている。屋上へ上がってきた史緒は、乾いた風に長い髪を流され、鬱陶しそうに頭を押さえていた。
「何やってるの?」
「花見」
短く答えると、三佳はまた視線を戻す。
近所の公園は、今、桜が満開だ。公園だけじゃない。この屋上から見える景色のあちらこちらに薄紅色の郡が見える。一年を通して、ここから見える景色が三佳は好きだった。
今は4月。この桜が終われば新緑が繁り、梅雨がきて、夏がくる。三佳が初めてこの屋上に立ったのは6月だった。そろそろ季節がふた回りしたことになる。
「三佳って学者肌な割に、そういう風情的なもの、好きよね」
史緒は三佳の隣に並んで、手摺りに肘をかけた。同じ風景を眺めても史緒はあまり興味が無さそうだ。三佳は思わず笑った。
「それはすべての学者に対する差別発言とみていいな?」
「そうは言ってないけど」
と、口ごもる。
「で? 何か用か?」
「司が今から帰るって。事務所に連絡あったわ」
「ふぅん」
三佳はちらりと腕時計に目をやった。史緒の前では気の無さそうな返事をしても、内心では待ち遠しいのだろう。その様子に史緒は苦笑する。
七瀬司は今年19歳になる青年で、史緒と同じくA.CO.創設メンバーの一人だ。彼と三佳は、ウマが合うというか、性根が似ているというか、一緒にいることが多く、何か企んでそうという人聞きの悪い共通点もあった。
三佳がこの屋上からの景色を気に入っているのは史緒も知っていた。近所の公園や、すぐ近くに望める東京タワー、神社、遠くのビル群などすべて。三佳は眠れない夜遅くにも、よくここへ上がってきているようなのだ。三佳の行動パターンは意外と単純で、この屋上か月曜館、バイト先か、もしくは七瀬司のところにいる。
「花見客がいるな」
眼下の公園を見て三佳が言う。あまり広くない公園だが、その敷地内の3本の桜の下、青いビニールシートを敷いて宴を開いている団体があった。見たところ年配の男女で、散歩がてらという風体である。
「三佳も花見客の一人でしょ」
「私は酒飲んだり騒いだりしない」
「そういえば海外の新聞のコラムであったけど、何故日本人は桜の下で酒を飲むのか、ですって。確かに、純粋な植物鑑賞ではなく無駄に馬鹿騒ぎしているのは日本だけかもね」
と、花見という風習を嘲笑うような口調で史緒は言う。三佳はそれについて肯定も否定もしないが、ひとこと言わせてもらおう。
「解答にはならないかもしれないが」と前置きして。「桜は精神安定剤になる。花粉の中に含まれるリンとイオウが、疲労の原因である体内のケロトキシンという物質を消滅させるからだ。これは化学的に証明されている。一応、桜の下に集いやすいということの説明にはなるだろ」
「相変わらず、詳しいわね」
史緒は嘆息した。三佳が幼いながら化学の知識を持っていることは承知している。今更いちいち驚いたりはしない。
2年前のある事件の後、史緒は事件の関係者である三佳を引き取ることを申し出た。当時、三佳の身柄は警察病院に一時収容という話があり、その後の処置については未定だったのだ。史緒は知り合いの刑事に頼み込んでさらにコネも使って、三佳を引き取った。その時、関谷篤志には反対されて一晩口論になったし、七瀬司は事情を知らなかった。
時々、史緒は考える。三佳を引き取ったこと、本当にこれで良かったのか。
三佳は近隣の小学校に籍を置いているものの、まったく足を向けてない状態だ。
「社会勉強は外でしてるし、学業は問題ない」と、三佳は言う。
「将来、私みたいになるわよ」と、史緒が言うと「史緒よりは世渡り上手になると思うな」と生意気なことを言った。
三佳は自分の将来について何か考えているのだろうか。少なくとも史緒は三佳から聞いたことがない。そもそも三佳は自分のことについて史緒を相談相手にしたことはない。
(司に言えてるならいいんだけど)
どうもあの2人は、他に敵無しのコンビを誇っているものの、2人ともお互いのことをあまり探ろうとしない傾向があるから。
その三佳は飽きる様子もなく、公園の桜を眺めていた。
「まぁ、精神安定剤とかそれ以前に、民族的というか土地柄というか風習というか、日本人は大抵、桜が好きな人種だな」
と、おおよそ化学者が絶対口にしないようなことを言う。好きという感情で片付く科学・化学はないだろう。学者肌で風情好きで、そして「好き」という感情で一つの事象を説明してしまう矛盾も三佳らしい。史緒は声を立てて笑ってしまった。が、それをすぐに収めた。
「私は桜の花は嫌い」
何気なく発せられた台詞だったが、その言葉には重みがあった。
三佳は史緒の横顔を見つめる。史緒は静かな表情で公園の桜を見つめていたが、三佳の視線を感じたのか、口端で笑い、表情をごまかした。
「…なんで?」
「嫌な思い出しかない」
それ以上は聞けない雰囲気だった。でもそこまで答えるなんて、史緒にしてはサービス過剰だ。単に三佳の前で口を滑らせてしまったことの後始末にすぎないとしても。
「…祥子の引越し、どうなってるかな」
三佳が話題を転じた。それについて史緒は冷静に答える。
「結構人手はかかってるから、順調じゃなきゃ困るわね。能力を疑うわ」
「けどチームワークがない」
「それは言えてる」
今日は三高祥子の引越し実行日だった。関谷篤志、木崎健太郎、そして川口蘭がその手伝いに借り出されているため、現在、事務所には誰もいない。もともと祥子は学校からも事務所からも遠い所に住んでいたので、卒業を契機に事務所の近くに引っ越すことにしたのだ。ここから歩いて15分くらいらしい。
この引越しを促した入院中の祥子の母親は、「史緒さん家の近くなら安心だわ」と微笑んだ。祥子は「私のほうが年上なんだけど」と、うなだれていた。
その祥子が先月、史緒の性悪さに我慢しかねて事務所を飛び出した事件があった。結局は戻ってきたわけだが、戻ってきた後も以前と同じような喧嘩を続けていることに三佳は呆れる。
そんな関係がずっと続くのだろうか、と考えた。
風に吹かれる中、三佳は史緒の横顔を見上げた。
「史緒」
「なぁに?」
「西山の手記。渡してくれないか?」
史緒の横顔に変化があった。
「───だめ」
「史緒っ」
「ごめんなさい」まっすぐに視線を向けた。「まだ、渡せない」
「…っ」
三佳に睨まれても、史緒は目を逸らさなかった。
少しの時間の膠着を解いたのは、ドアが開く音だった。
「いる? ふたりとも」
七瀬司だった。事務所が空だったので、屋上を覗きに来たのだろう。
「司」
三佳は手摺りから離れて司の元へと走った。
「遅れてごめん。行こうか」
「ああ」
出かける約束でもしていたのだろうか。どちらにしても史緒は留守番だ。いってらっしゃい、と声をかけた。
あ、そうだ。と三佳が呟いて振り返る。
「次は脅してやるから覚悟しとけ」
と、先程の会話の続きを口にする。司に余計な気を回させないためか、その台詞からは史緒に対する刺は消えていた。
「へぇ、どんな脅し文句かしら。心当たりがありすぎて困るわ」
余裕を見せ付けるために史緒はおどけて芝居がかった口を利く。しかし三佳は自分の持ち札に自信があった。
「夜遊びしてること篤志にバラす」
史緒は途端に青くなった。
「ちょ…っ、三佳!」
「へーえ。史緒って夜遊びなんかしてるんだ」
篤志にばらされるのも困るが、今、ここで司にばれた。三佳はわざとだ。
知らん顔の三佳は司の隣に並び、2人は史緒に背を向ける。ドアの前で一度だけ振り返った。
「じゃあな。3時には戻る。引越し組への差し入れはその後でいいだろ」
「行ってきます。篤志には黙っておくから安心して」
司のにこやかな捨て台詞は、三佳の脅し文句の後押しでしかない。
ばたん。
「…勘弁してよ。2人とも」
残された史緒はその場に崩れ落ちそうだった。一方。
ザマミロ、と三佳は思ったが、例えその脅しを実行に移しても三佳の要求に史緒は屈しないだろう。
(まぁ、この脅しは別のネタで使えるかもしれないし)
相手を負かすためのカードはいくつか持っておくものだ。
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