キ/GM/21-30/27
≪2/3≫
2
「!」
暗闇の中で目を覚ますことにはもう慣れてしまった。
マラソンをした後のような息の乱れと全身を冷やす汗。たまらなく不愉快でウンザリする。何よりも気持ち悪いのは、夢から覚めた直後の浮遊感。夢と現の間、地に足が着かない、胃が持ち上げられるような嘔吐感の一歩手前。
浅い息を繰り返しながら、夢の内容を遠ざけるために現実感を掴もうとする。しかし部屋は暗く、天井を見ることもできなかった。まだ早朝にさえならない、深夜だった。
深い闇が怖くなって、何でもいいから視界に入れたくて手のひらを体に引き寄せる。指先は凍るように冷たい。汗を掻いた額に前髪がはりついていて、右手の甲で乱暴に拭う。
暗闇の中で島田三佳は半ば呆れたような溜め息を吐いた。
無理矢理にでも溜め息をついたのは、夢の残り香を捨てて早く本来の自分を取り戻すためだ。
夢の内容を忘れるなんて器用なことはできない。
見る回数は確実に減っていた。けどゼロにはならない。この夢を見る原因さえ忘れられそうなのに、夢を見る度に、また思い出す。何回も何回も。忘れてはいけないのだと、まるで見えない誰かが背後から見張っているようだ。
(ばからし…)
「見えない誰か」などいない。
夢を見せているのは自分自身。忘れられない昔の出来事が、時々、この体の中で暴れ出すだけだ。
夢になど見せなくても忘れないのに。
言葉で表すならそれは決して幸せな夢じゃない。悲しい、苦しい、辛い…どれも一言で表すのは難しい。
ただ、悪い夢。
悪い夢を、見続けている。
「三佳」
暗闇から声がかかる。
「…っ」
眉間に皺を寄せ、三佳は驚きのあまり息を止めた。
大きく吐き出してしまう溜め息を聞かれないように、口を両手で押さえる。
深い深い自責の念に駆られた。
その声は、同じような状況でよく聞く阿達史緒の声ではなかった。七瀬司の声だった。そしてここは自分の部屋じゃない。司の部屋だ。
羞恥に似た感情が襲う。それととてもよく似ているけれど、後悔。どうやって取り繕うか考えなきゃいけない。そして何よりもまず呼吸を整えなきゃいけない。でもそれもうまくいかない。唾を飲み込んだ喉が、奇妙な音を立てただけだった。
「三佳」
再度、暗闇から発せられる声。自分の名。
夢の途中、恐らく声を上げただろう自らの口を、三佳は両手で押さえた。未だ呼吸は不規則で、顎は震え、歯が噛み合わない。
(落ち着け!)
こんな自分を晒したくない。たかが悪い夢を見ただけで、こんなにまで動揺してしまう自分を情けなく思う。不本意だ。
今夜、三佳は司のアパートにお泊まりしていた。そんなに珍しいことじゃない。月3回はしていること。司のベッドの隣に布団を敷いて、三佳は眠っていた。
繰り返し見る夢。三佳が外に出てからの2年間だけで百回は下らない。繰り返し、繰り返し。
目が覚めると大抵は同居人の阿達史緒が心配そうに覗き込んでいる。隣の部屋にいる史緒を起こしてしまうほどの大声を出しているのだろうか? 何か、口走っているのだろうか? それを訊くことは恐い。確認することなどできなかった。
そしてそれを司の部屋でやってしまったのは今夜が初めてだった。大した失態だ。
「三佳、起きてる?」
「…ごめんっ」
表情を悟られたくなくて、三佳はぐるりと寝返りをうって窓際の司に背を向けた。顔が見えるはずもないのに。暗闇のせいだけでなく、司には。
その暗闇から、いつもの優しい穏やかな声が返った。
「何で謝るの?」
「…」
「目が覚めちゃったね。冷たいものでも飲まない?」ベッドが軋む音が聞こえた。「あ。上、通るよ。踏んづけたらごめん」
苦笑混じりの、司の、いつも通りの声。
司は三佳を問いただしたりしなかった。彼の眠りはいつも浅いほうだが、今、起こしてしまったのは、間違いなく三佳だろうに。
司の足音が三佳の上を通り、台所へ向かうのが分かった。冷蔵庫を開ける音と、漏れる光。三佳は突然のその光を眩しく感じた。(冷蔵庫を開けると明るくなるって、司は知ってるのかな?)しばらくすると、氷の鳴るグラスを両手に司は戻って来た。暗闇の中をスタスタ歩く。司には夜も昼も関係ないのだった。
「───ごめん、起こしちゃって」
「気にしてないよ」
と、やんわりと笑う。
司はグラスを、ベッドの壁際、窓枠の上に置いた。そしてカーテンを引き、窓を開けた。レールがカラカラと音を立てた。その時、三佳の髪が揺れた。
「ああ。いい風が吹いてるね」
「…」
本当に。春先の暖かい、乾いた気持ち良い風が吹いて、三佳の髪を揺らした。司は三佳に手を差し出した。
「目が覚めちゃったついでにちょっと話しよう。付き合ってよ」
室内の照明はついてないけれど、目が慣れたせいか外からのわずかな明かりで司の表情を見ることができた。安心した。布団の上に座っていた三佳はゆっくり立ち上がり、ベッドにのぼって司の隣に座った。窓の外からは、遠く車の音と風が吹き込んでくる。窓枠には汗を掻いたグラスが2つ並ぶ。隣には司がいる。いつのまにか鼓動は収まっていた。
*
司は三佳の様子には突っ込まず、本当にいつも2人がするような話題をいくつか口に出した。その中のひとつで、司はこんなことを話題に出した。
「昔、史緒が猫飼ってたって知ってた?」
「史緒がっ?」
「意外?」
「というか、史緒が小動物の世話をまともにできるとは思えない」
「僕が史緒と知り合ったときにはもういたから、7年くらい飼ってたんじゃないかな」
「猫?」
「ああ。最初は手のひらに乗るくらい小さかったけど、最後はでっかい年寄りになったよ」
「そうか、7年じゃな。名前とかあった?」
三佳が尋ねると、思い出し笑いか司は口元を緩ませて、
「ネコ」と、一言。「…何だって?」「ネコ」
「史緒が付けたんだ」
三佳は軽い目眩を覚えた。
「まぁ僕も最初は呆れたけど」「でも史緒らしい」「そうそう」
史緒が愛玩動物を持っていたのには本当に驚きだ。所有物に名前を付けるのは、当人の個性が表れるものだが、この場合、表れすぎてて恐い。
ふと、思いついて三佳は独り言を声にした。
「そういえば、クマにひつじって名前つけてるやつもいたしな」
「熊、飼ってたの?」
「…ぬいぐるみだ」
司のジョークにも呆れた、というより不覚にも吹き出してしまった。
(───あぁ、そうか)
この呟きは顔には出さない。
クマのぬいぐるみに「ひつじ」という名をつけていた人物のことを何気なく思い出せる程、あの頃から時間が経ったという実感に三佳は感慨を覚えた。ひとつ、そんなことを思い出すと、連想ゲームのように少しの繋がりを持つ別の事柄を思い出して、三佳はクスリと笑った。これは素直に口にした。
「この間」
「うん?」
「健太郎とカード勝負したんだ」
「三佳が勝ったんだね」
「当然」
司は勝負の結果を容易く見抜くことができた。三佳と健太郎、2人の腕前は知っているし、なにより、三佳は自分が負けた勝負について口にすることはしないだろうから。
健太郎のほうは本人が思っているほどカードは強くない、と司は見ている。カードのような見えない駒が多い勘がもの言う勝負事より、どちらかというと布陣を敷くようなオセロやチェス、将棋や囲碁のほうが健太郎の頭の回転には合っているような気がする。
本人に自覚が無いのは気の毒だが、気付くまでは健太郎が三佳に負け続けるところを静観しようと思った司だった。
「あれだけ負けといて、懲りないかな。いいかげん」
「ケンの場合、勝つことに拘ってないと思うけど。ま、意地にはなってるかな」
「損得が考えられない馬鹿なだけだ」
「価値観が違うってことだよ」
そんな風に、司にやわらかく諭されるのは嫌いではない。三佳はそれ以上は毒づかず、さらにその後の健太郎とのやりとりを思い出して、黙り込んだ。
「負けたッ」
カードを空に投げ出して、健太郎は手足も放り投げた。その正面に座っていた三佳は余裕の笑みで言う。
「自らの恥を大声で宣伝しなくても」
「おっまっえっなぁ!」
そして健太郎は苦々しく言った。
「末恐ろしいなぁ、おまえ」
三佳は怯む様子はない。笑ってさえ見せた。
「どうせ20を過ぎればただの凡人だ。それまで我慢してろ」
「10年も先の話じゃねーかっ!」
───「ひつじ」を、最後になって手放した人物を思い出すと、いつも考えることがある。
そう、健太郎が言った通り。10年後。
この体は、どこで何をしているだろう。
≪2/3≫
キ/GM/21-30/27