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 2年前───1997年6月末。

 峰倉徳丸は来客中であるにも関わらずパソコン作業に集中していた。つまり、その程度の客だ。
 日光が入らないようにカーテンを閉めきった部屋は薄暗く、どこか陰気臭い。壁側の棚には褐色の遮光瓶が埋め尽くされているし(一気に床に叩き倒したくなるような棚だ)、部屋中に妙な異臭が漂っている。そんな風景の中に、カタカタとキーボードを叩く音だけが響いていた。
「島田さぁ」
 と、手をとめずに背後に立つ来客に声をかけた。
「好きな男いるだろ?」
 峰倉の発言としてはかなり異色だ。阿達史緒は素直に驚いて、壁に預けていた背を浮かせた。
「そう…ですね。ここへは顔出したことありません?」「ねぇよ」「でも、好きっていうのかしら、あれは」
「この間、うちのにネクタイの結び方なんて教わってたぞ。それに料理とか」
 料理に関しては、史緒は大いなる恩恵に与っているのでコメントは避ける。すると峰倉は今度はわざわざ振り返ってから言った。
「同居人が家事一般何もできないから、とも言ってたな」
「私が押し付けてるわけじゃないですよ」
「島田ができない人間を放っておける性格じゃないのは、俺もわかってきた」
「…」
 史緒は微妙に口元を歪ませただけで何も言い返さなかった。
 峰倉徳丸は43歳。東京都秋葉原電気街の片隅にある峰倉薬業汲フ代表取締役社長である。峰倉薬業は薬品全般の卸売業者で、従業員数は峰倉の配偶者も含め5名。と、現在アルバイトが一人。主な仕入先は国内外の各製薬会社、主な取引先は病院、研究所、薬局、学校など。
 史緒は週一でここへ訪れ、島田三佳の様子を峰倉から聞くのが習慣になっていた。
 島田三佳は1ヶ月前、史緒が引き取った9歳の少女だ。三佳は週4日、午後のみ、峰倉薬業でアルバイトをしている。
「あそこから外へ出て気付いたんだろうな。この偏った知識だけじゃ生きていけねぇことにさ。ほんとに、何でもかんでも覚えたがって聞いてくる。まぁこっちとしても、乾いたスポンジに水をやるのはおもしろいよ。素材がいいならなおさら。」
 それから三佳は他に、社会不適応者のための更正プログラムも受けている。外界のことを何も知らない人間には必要な処置なのだと警察は言う。
「でも一般常識を得たいだけなら、峰倉さんの所へ通う理由は無いんじゃないかしら」
「コレが島田の道だからだろが、わかってねぇな。あんなことがあっても、島田はこの知識を手放したくないんだ」
「峰倉さん」
「島田の前じゃ言わねぇよ」史緒の強い声をかわして、峰倉はパソコンに視線を戻した。
「来週、香港行くって?」
「ええ」
「イギリス領のうちに観光か?」
「いいえ。返還後のパーティに招待されてるんです」
「島田も?」
「ええ」
「あれからまだ1ヶ月だ。よくパスポート取れたな…というより、よく警察が許したな。金の力かコネの力か」
 峰倉は失笑する。史緒は説明が面倒なので、
「両方です」と、かわした。
「どっちもあんたの力じゃ通用しないな」
 これは皮肉だろう。史緒は怒りを抑えて、
「ノーコメントです」と、無視した。

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