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「こんにちわぁ」
 A.CO.の事務所に一人の女性が現れた。
 その高い声はわざとらしいほど舌足らずな口調で、その時事務所にいた2人にあまり良い印象は与えなかった。サングラスを掛けフルメイクを施した顔、グロスが光る唇は不敵に微笑んでいる。歳は推測20代後半。ソバージュの黒髪は腰位置まで。ボディラインを強調する朱色のワンピースを着て、同じ色のピンヒールは高さ8センチ。梔子を水で溶いたような淡い黄色の春コートを肩に引っ掛けていた。
 事務所にいたのは阿達史緒と島田三佳だった。朝8時50分のことである。
 きっかり5秒間、2人は突然の来客に言葉を失っていた。5秒後に正気に戻ったかというとそうではなくて、
「ちょっと! ここはお客にアイサツもしないわけ!?」
 来客のほうが痺れを切らし、ずかずかと大股で入室してきたのだった。ピンヒールの踵は危なげもない。そのまま史緒が座る机の前まで来ると、コートを持ったままの左手で、ばんっと机を叩き、史緒と対峙した。
 右手でサングラスを上げ、笑う。
「久しぶり。相変わらず生意気そうな顔ねぇ」
「───」
 史緒は微かに眉をしかめた後、深々と溜め息を吐いた。
「お久しぶりです。私の顔が生意気そうなのは生まれつきですから」
「それって責任転嫁よ? 阿達夫妻は美男に美女だったじゃない。先天の血のせいにするなんてレベル低さの露呈、自己認識の欠落、現実逃避よ。あんたの顔が生意気そうなのは、あんたが成長過程で培ってきた性格の悪さが滲出してるの。素直に認めなさい」
 あまり理論的とは言えない台詞だが、反論を許さない命令口調。隙の無い台詞回しに圧倒され、思わず頷いてしまいそうにもなるが、史緒はきっぱりと言い返した。
「では、生まれつきという発言を取り下げます。生意気に見えるのはあなたの偏見で、私怨があるからでしょう」
「あらまぁ、結局は他人のせいにするんじゃないのさー。代わり映えの無い思考回路だこと。ちょっとは成長したら?」
「あなたに不愉快な発言をされたこと、蘭に報告させてもらいます」
「問題を自分で解決できない所長じゃあ、A.CO.も長くないわね」
 史緒に真正面から毒づく人間も珍しいが、まともに言い返す史緒も珍しい。いつもなら無視するところだ。
 突然の来客が誰かは知らないが、語彙が豊富になっただけの子供の喧嘩が繰り広げられている隙に、三佳は紅茶をいれてきて、応接用のテーブルの上においた。ついでに史緒にコーヒーをいれてきた。
 ぱっと来客がその身をひるがえす。
「もしかしてこの子が三佳ちゃん?」
 史緒は溜め息を吐いてから答えた。
「そうです」
 客が自分の名前を知っていることに三佳は驚いた。誰だ?
「返還パーティ以来、我が家の噂の的よ。あなたが司の彼女かー。あのとき、私一人会えなくて残念だったわー」
「あの」
「三佳。この人は蓮流花さん。蓮家の長女、蘭のお姉さんよ」
「え」
「よろしく、三佳ちゃん」
 強引に握手させられた。
「31歳」
「強調するなよ」
 史緒の呟きに流花は噛み付いた。
 蓮流花。三佳はその名前を知っていた。「流花さんは僕の先生でもあるんだ。厳しい人で、昔はよく泣かされたものだよ」と司から聞いたことがある。具体的に何の先生だったのかは知らないが、三佳はもっと年配であるイメージを持っていた。
「私のことも、少しは知ってるかな?」
 流花は三佳の前に座り込み、顔を覗き込んできた。三佳は気を取り直して挨拶をする。
「はじめまして、島田三佳です。噂は色々と聞いてます」
「蓮流花よ。礼儀正しい子は好きだわ。史緒とは大違い。お守りは大変でしょ?」
「ええ」
「流花さん、いちいち引き合いに出すのはやめてください。三佳も、そこで肯定しないで」
「あら、言論の自由を奪う気? 私に対しても三佳ちゃんに対しても、あなたにそんな権利があるのかしら」
 またも不敵に笑いながら史緒と口論が始まる。
 それを見ていた三佳は流花について何となくわかったことがあった。
 流花はきっと、日本語を喋ることを面白がっているのだろう。違和感のない流暢な発音だが普段は口にしない言語を。
 感情から言語への変換。自国語では早すぎて全く意識しないが、他言語への変換の、頭の中の回路の少しのぎこちなさがちょっと面白い、という気持ちは分かる気がする。法学部の学生は専門用語をやたら遣いたがる、と聞いたことがある。あれと同じような気持ち。あまり良くない意味で言われていたが、その気持ちは分かるような気がするのだ。
「蘭と会わなくていいんですか? 早く行ったらどうです」
「勿論、会いに行くわよ。用事をすませてからね」
「用事? まだ何か?」
 史緒の眉間が歪む。
「私の一番優秀な生徒と、蘭が夢中になってるっていう男を見にね」
 それを聞いて史緒はまた溜め息をつき、椅子に座り直した。
「…その2人でしたら、丁度、後ろに揃ってますよ」
 朝8時58分。七瀬司と関谷篤志がドアの前に並んで立っていた。



「司、久しぶり」
 流花は真っ直ぐ進むと、司の首に両腕を回してぎゅっと抱き寄せた。司のほうが背が高いので自然と前かがみになる。司の肩にぶら下がるように流花は力を込めた。「背も伸びたわね。そうね、男の子だものね」
「こんにちは。流花さん」
 流花に抱き寄せられても少しの動揺も見せずに司は挨拶を返した。その様子に流花は微笑む。
「───ちゃんと私の言ったこと、守ってるみたいね。いい子いい子」
 抱き付いている片腕で司の頭を撫でた。そして体から離れ、司の顔をまじまじと見つめた。
「あら、いい男に育ったじゃない。結婚早まったかしら」
「流花さんのところ新婚でしょ? 旦那さんにチクるよ」
「こんな美人に迫られてるのに言いたいことはそれだけっ? ちょっとは照れなさい」
「見れたらちゃんと照れたよ」
「性格もとびっきりの美人よ。わかってるでしょうけど」
 気のせいか凄みを帯びた流花の声色に司は言葉を無くした。不用意なことを口走ってしまうことを恐れたのだ。
 流花は司から離れ、今度は隣にいる篤志の顔を覗き込む。
「で。あなたが、『アツシサン』か」
「関谷篤志です」
 篤志は軽く頭を下げた。
「蓮流花。知ってるかもしれないけど蘭の姉よ」
「どうも」
「───…」
 流花は大きな目を開き瞬きせずに篤志を見つめた。
「…?」その視線にたじろぐ篤志。史緒と三佳と司はその不自然な間に首を傾げた。10秒程経過した。
 鋭さは無いがどこか深いところを見透かすような流花の視線に、篤志は居心地の悪さを味わった。
「…ふぅん。蘭の好きな人か」
 やっと流花は声を発し、無言の金縛りが解けた篤志はそっと嘆息した。
 それにしても。
 以前に面識のある他の兄姉もそうだが、何故彼らは篤志の意向を尋ねないのだろう。末妹の恋心さえあれば相手の気持ちはお構いなしということか? 穿った物言いであるが、あの兄姉ならあり得なくはない。篤志は心中で苦笑した。
「なんで長髪なの?」
「不精です」
 流花の質問に篤志が答えると、流花は鼻白んだように目を細め、ぷいと横を向いた。
「まぁいいわ。───史緒…じゃなくて三佳ちゃん。ちょっと司を借りてくわね」
 流花は史緒改め三佳に言い、司にも軽く声を掛けてさっさと退室した。
 少し遅れて司も「ちょっと行ってくる」と言葉を残し、流花の後を追った。

「私は蓮家の兄姉たちに、あまり良く思われてないのよ。流花さんはまだマシなほう」
 2人が出て行った後、史緒は気にしている様子もなく淡々と口にした。三佳のための補足説明だ。
「どうして?」
「蘭を香港から連れ出した張本人だから」
 厳密には、蘭は史緒や篤志の傍に居たいが為に家を出たのだが、蓮家の兄姉たちからすれば同じことである。
「篤志も、初対面であまり良い印象を与えなかったみたいだな」
「蘭の好きな人じゃ仕方ないわね。あの兄姉の、蘭の溺愛ぶりは普通じゃないもの」
 三佳と史緒は篤志のほうへからかうような視線を向けた。
「俺はなんか、あの兄姉苦手だよ。初対面のとき、皆、睨んでくるから」
 篤志はばつが悪そうに苦笑した。

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