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「あの事故で病院へ運ばれた後のことは誰も知らないんだ。あんたの所にいるのか?」
 熱っぽく喋り、「あの子」の居場所を執拗に確認してくる蔵波の意図が見えて、史緒は頭が痛くなった。涙が出るような苦い空気を味わった。
「…8年前の事故については当事者全員、口外無用の誓約書にサインしているはずですが」
「構うもんか、俺はもう処分を受けた」
「あなたねぇ!」
 史緒が声を荒げても蔵波は気にもせず喋り続ける。
「頼む、あの子に会わせてくれ」
「できません!」
 予測できていた要求を、史緒は切って捨てた。
「何故」
「彼は、今普通に生活しています。思い出させたくありません」
「俺は加害者だ。謝罪くらいさせてくれてもいいだろう」
「彼はあなたのことを恨んではいません。そっとしておいてあげてください」
「確か怪我したのは頭だったな、酷かったのか? どんな怪我だったんだ?」
「え───…?」
 蔵波のその質問を聞いて、史緒はゆっくりと頭が冷めるのを感じた。
 少しの絶望と大きな失望が胸に込み上げて胸が鈍く痛んだ。
(ああ、この人は───)
 知らないのだ。いや、さっき、そう言っていたけれど。
 史緒は眉をしかめ、大きな溜め息を吐く。
 知らないなんて。
 誰も知らないなんて。
 …それはそうなんだけど。
 アダチの筆頭にして史緒の父親である阿達政徳が、当事者全員の口を噤ませ、彼を匿い、その権力をもって事故を揉み消したのだから。知るはずはないのだけど。当事者さえ、彼の「今」を、知りようがないのだけど。
 あの事故の後、彼がどうなったのか。
(知らないなんて───…)
 史緒は天を仰いだ。
 そして思う。それならばあの事故は一体何を残した? 教訓も反省もなく、ただ、流されてしまった。彼が負った傷には、どんな意味があったのだろう。
「…あなたの謝意は、伝えておきますから」
「謝りたいということに何の不都合があるんだ、構わないだろう」
「…」
 史緒は蔵波の意図が読めて、そのあまりの浅ましさに顔をしかめずにはいられなかった。
 蔵波はただあの事故の被害者が今どんな姿なのか見たいだけなのだ。そんな浅い好奇心で、会いたいなどと言っているのだ。
 痛々しくて、史緒はもう我慢できなかった。
「ただ謝りたいというのは、あなたのエゴです。ここは引いて下さい。…失礼します」
「おい…っ」
 史緒は蔵波に背を向けて駆けだした。蔵波は荷物を抱えているために追ってこれないようだ。
 いつもの史緒なら逆に、口だけで相手を追い返すことができた。蔵波を相手に勝手が違ったのは原因が2つある。
 ひとつめは、蔵波が予想外の強敵であったこと。
 ふたつめは、ずっと昔の出来事。拭いきれない負い目を表面に浮き彫りにされたこと。



 駅へと足を速めていた史緒はふと足を止めた。
 視界の左端に見覚えのある背格好の人影が映ったからだ。
 その人影は店先に置かれている鉢植えの影に隠れるように身を潜めていた。「…」史緒はピタリと足を止め目を見開き、振り返った。
「三佳!?」
 ビクッとその肩が揺れる。先に帰ったはずの三佳は、申し訳なさそうな表情でゆっくりと顔を向けた。
 史緒は語気を強めて三佳に詰め寄った。「まさか聞いてたの?」
「…つい」
 三佳は叱られることを覚悟して上目遣いで史緒を見上げた。しかし史緒は呼吸を荒げた自らの口を右手で隠すようにして、視線を反らし、何か考え込んでいるようだった。指先の動きで苛立ちを感じていることが伝わってきた。
 三佳はおそるおそる史緒に尋ねた。
「今のまさか……───司のこと?」
 史緒と蔵波の会話を三佳は立ち聞きしていた。話のすべてが聞こえたわけではないが、「七瀬」という単語を蔵波は口にした。
「そうよ」
 横を向いたまま、史緒は短く答えた。
 史緒は三佳に事情を話すべきか決めかねていた。司の過去に関わるアダチの事情を自分の口から三佳に伝えてよいものだろうかと。司は三佳に打ち明けたことはないのだろうか。でも司のほうも、アダチに関わることだから簡単には口にしないはずだ。でもこの先ずっと、三佳が知らないままで良いはずは無いと思う。
 史緒は大きく肩で息を吸って、ゆっくりと息を吐いた。そして三佳のほうに顔を向けた。
「…そうね。司は絶対に言わないだろうし」史緒は自らを責めるような失笑をした。
「あ、三佳に言いたくないんじゃなくて、私に気を遣ってるのよ。勘違いしないで」そう念を押すと、三佳の背中を促した
「行きましょう。電車の中で話すから」



「司が失明したのは、アダチのせいよ」
「───」
「アダチの事業部門のひとつに機械化学の工場があるの。小規模で、でも先端技術の開発部門。普通、どの企業も開発部門は金食い虫なのよね。商用目的の生産性を持たないし、日頃の研究が将来利益に結びつく保証は無いわけだから。でもその工場…通称一研≠ヘ、20以上ある事業部門のなかで、経常利益9位。…まぁ、優秀かどうかは、私にはわからないけど」
「8年前、一研の開発主流だった工業用レーザー試験の最中に事故があったらしいわ。重傷者を出した事故だったけど、その事故は表沙汰にはならなかったの」
「どうして?」
「父が揉み消したのよ。企業にとって特に人身事故の不祥事は大きなイメージダウンだわ。人の口に戸は立てられないっていうけど、その一件についてはきれいに片づいたようで8年経った今も工場から外には出てないわ。
 私は父を酷く嫌悪した。怪我人を出しておきながら保身の為に証拠隠滅…。汚いと思った」
 史緒がこんな風に自分の心情を語るのは珍しい。
「でも今思うと、父の判断は正しかったのかもしれないって思うわ」
「え…」
「その事故の唯一の負傷者は工場の研究員ではなく、たまたま見学に来ていた研究員の子供───11の男の子だったの。もし事故がニュースになっていたら、その子供は世間の目に曝されて余計な同情をかっていたかもしれないし。…───わかった?」
 史緒は三佳の顔を覗き込んでくる。
「その事故の唯一の負傷者、それが七瀬司よ」宣言するような響き。さらに史緒は続ける。「司はその事故で視力を失った。司が失明したのは、アダチのせいなの」
 そう言って顔をそむける。横顔は嫌気が差したように眉をしかめ、ひきしめた口元が微かに震えていた。


*  *  *


 史緒は電話を取るのに2時間悩んだ。ひとり部屋の中で。
 2時間も何を悩んだかというと、自分が今知りたい情報を得るにはある人に訊くのが手っ取り早くて、そのある人に電話をかけたいけれど実はかけづらい相手で、そこまでして知りたい情報かというと考え込んでしまう内容で。
 結局、史緒は2時間後に電話をかけた。相手は一条和成だ。
「あなたから電話してくるときは、大抵、何か頼みごとがあるときですよね」
 と、開口一番にそんなことを言われた。日頃の態度からすれば都合の良い女と思われてもしょうがない。反論する気力も無く史緒は黙り込む。何にせよ、一条の言葉は図星だ。
「どうぞ。何でも協力しますよ」
 一条が結局そう言ってくれることを知っているので、つい史緒も甘えてしまうのだけど。
「蔵波周平が今何をしているか知りたいの。8年前、一研の職員だったはずよ」
 史緒が用件を切り出すと、一条は声を改めて言った。「そんな名前の人もいましたね」
 受話器の向こうから紙をめくるような音が聞こえた。次にパソコンのキーボードを叩くような音。史緒は慌てて、
「あの、急いでるわけじゃないので…」「すぐ調べられますよ。少々お待ちください」
 8年前に在籍していたアダチの社員について何故すぐに調べられるのだろう、と史緒は思った。現役社員だって万は下らないはずなのに、ただの一社員を。
 社長秘書という肩書きにどれだけの権力が与えられるかは知らないが、社員名簿を管理するのは決して秘書課では無い。一条がどこから情報を得ているかは史緒には全くわからなかった。
 少しして作業を続けながら一条が言った。
「この人物について、何かありましたか」
 その質問に史緒は答えなかった。また、一条が回答を期待してないことを知っていた。
 少しの沈黙が生まれたけれど気まずくはない。史緒にとっては司より付き合いが長い相手、お互いの出方が何となく分かってしまう。
「…その人は、まだアダチにいますね」
「まさか。あれだけの事件が起きてて処分無しじゃ済まないでしょう?」
「あの事故ではセンター長が辞職、部長クラス5人が停職・減給・戒告されています。蔵波は直接の関係者ではありましたが当時は主任…、左遷で済んだのでしょう。現在は、八王子にある工場の管理部に配属されています。役職は無し。この先も出世は無いでしょうね」
「年齢は?」
「56歳。管理部の定年まではあと4年です。身辺調査をすることも可能ですが、それはそちらのほうが本業でしょう?」
「…」
 史緒は一条に伝わらないように溜め息をついて、右手で前髪を乱暴に掻き上げた。
 今日の昼間、蔵波に会ったことを司に言うべきか史緒は悩んでいた。史緒は2人を引き合わせたくない。でもそれは史緒の独断で、司はもしかしたらそれを望むかもしれない。でも蔵波に謝らせたいとは思ってないだろう。三佳には口止めしてないが多分喋らないはずだ。
 とりあえず蔵波が現在どんな生活をしているか調べようとしたのだが。
「…やっぱり、関わらないほうがいいか」
 無意識にひとりごちていた。
 害は無さそうだが、わざわざ波風を立てる必要も無い。何よりも史緒はあの男とはもう関わりたくない。
「何です?」
「いえ、何でも」

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