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 その日、三佳が峰倉薬業の出入り口から外に出ると史緒が待っていた。
 別に珍しいことではない。三佳がここでアルバイトを始めた頃は、峰倉に三佳の様子を聞くために週に一度は訪れていたし、史緒自身の仕事で近くまで来ることがよくあるからだ。
 三佳が出てきたことに気付くと史緒は「通り掛かったから」と、言った。
 三和土をくぐりながら、三佳はからかうように返した。
「夜遊び仲間と昼間っから遊んでるのかと思った」
「…何度も言ってるけど、それ、篤志には言わないでよ? それに夜遊びって言い方、語弊があるからやめて」
 史緒に睨まれても三佳は余裕の表情だ。もちろん、弱みを握っているのは三佳のほうだから。
「じゃあ、何やってるんだ」
 史緒の夜遊びについて、三佳がこの質問をしたのはこれが初めてだった。
「………」
 もちろん三佳は、史緒が答えられないと知っていたけれど。
 長い沈黙の後、史緒はごまかすように「人と会ってるだけよ」と苦し紛れの言いわけをした。
「そういうのを夜遊びって言うんだろーが」
 さらに三佳がいじわる心で問いつめたとき。
「おー阿達じゃねぇか」
 と、三佳の後ろから別の声がかかった。
 峰倉薬業の社長、峰倉徳丸である。「来てたならアイサツくらいしろ」と、入り口から顔を出した。
 ボサボサの髪に皺の濃い(良く言えば彫りの深い)顔、そしていつもながら強い薬品臭を漂わせている。峰倉は嫌いではないがその匂いが史緒は少し苦手だ。しかし今回ばかりは、話題を変える天の助けとばかりに史緒はにこやかに挨拶をした。
「こんにちは、峰倉さん」
 峰倉は三佳にも声をかける。
「よ。お疲れさん」
 せっかくいいところだったのに、と三佳が言おうとしたところ。ガラリと引き戸が開き、出入り口からさらに中年男性が出てきた。入り口を塞いでいた3人が邪魔なので、一度足を止める。三佳たちはすぐに道を開けた。
 その男性に峰倉が声をかける。
「まいどー。注文したやつは来週だから」
 客なのか、と史緒は思った。
 その男はちらりと視線を向け軽く会釈しただけで、3人の傍らを通り過ぎていった。両手には大きな紙袋。やはり薬品類が入っているのだろう。年齢は50歳くらいでどこか陰気な印象を受ける。それにしても愛想の無い客だ。
 何となく3人の目があって、それぞれ苦笑した。
 んじゃ俺も、と峰倉は踵を返す。
「じゃあな、島田。来週もよろしく」
「お先です」
「阿達の面倒見るのも楽じゃないだろうけどがんばれよ」
「もう慣れた」
「あのね…」
 史緒の嘆息混じりの呟きを無視して峰倉は店の中へと戻っていった。
「ちょっと三佳、普段、私のこと何て言ってるの?」
「聞かないほうがいいと思うけど」
 峰倉の口が悪いのは知っていたし、三佳の毒舌も毎日のように聞いてる。自分のいないところでこの2人に何を言われているか、史緒は途端に嫌な気分になった。
「史緒、置いてくぞ」
 先を行く三佳が呼ぶ。
 史緒は深く溜め息を吐いて、いつもの足取りで歩を進め始めた。


「阿達…史緒っ!?」
 張り上げる低い声があった。
 峰倉薬業を出てすぐのこと。街中の往来で、背後から。
「───?」
 三佳は目を丸くした。足を止め、史緒のほうを見ると、史緒も同じように虚をつかれたような面持ちで足を止めていた。歩道を歩く他の通行人も、その大声に振り返っていた。
 史緒と三佳はゆっくりと振り返る。張り上げられた言葉と同じ名前を持つ史緒の表情は驚きより怒りのほうが色濃く表れている。往来で自分の名前を叫ばれただけでなく、呼びつけにされたわけだ。いい気分がしないのは当然だろう。
 そしてそこには意外な人物が立っていた。
 先ほど峰倉薬業から出てきた愛想の悪い客である。何故か驚いたように目を見開き、真っ直ぐに史緒を見つめていた。両脇には峰倉薬業で購入したと思われる荷物を抱えたまま。店を出たときは反対方向へ歩いて行ったので、わざわざ追いかけて来たのだろうか。
(誰?)
 三佳にとっては、最近よく見かける客のひとりだ。峰倉薬業で買い物をするには危険物取り扱い資格免許の提示と所属する団体の在籍証明が絶対なので身元は確かだろう。ただ、客の個人情報はアルバイトである三佳には教えてもらえないので、三佳は客のひとりという認識しかなかった。
 史緒も、その人物が何者なのか知らないようだった。訝しげな目でその男を見つめている。
 50代とおぼしき中年男性。くたびれたスラックスに紺色のTシャツ。無精髭に眼鏡。痩せこけて皺だらけの顔に目だけが生気に溢れていて何やら病的な雰囲気があった。
 男は史緒に近づいて言う。
「あんたっ、阿達史緒…───失礼、アダチのお嬢さんだろっ?」
「───」
 父親の会社関係だと解した史緒は、わずかに顎を持ち上げ据えた瞳で男を見つめ返した。
 隣にいた三佳は額を押さえ、何者か知らない男に同情した。史緒が敵対モードに入ったことに気付いたからだ。
「どちら様ですか」
 ゆっくりと丁寧に吐き出された言葉には明らかに刺がある。その見えない刺に刺されそうな気がして、三佳は史緒から少し離れた。
 しかしその空気が読めない中年男は史緒の問いかけに齧り付くように答えた。
「蔵波周平だ」
「存じません」史緒は嘲笑するような視線を投げた。「父の会社のことなら、本人に直訴してくださいませんか。尤も、父はあなたの話を聞くほど暇ではないでしょうけど」
「違う、あんたに用があるんだ」
「私はあなたのことを知りません。話を聞く必要もないと思いますので、失礼します」
 史緒は三佳を促して踵を返した。「おい」さらに男は声をかけてくる。史緒はそれを無視して早足で歩く。三佳も小走りでそれを負った。
「待ってくれ、あの子が社長の娘といるって噂を聞いたんだ!」
 自意識過剰かもしれないが、三佳は一瞬、自分のことかもしれないと思った。しかしそれは違うとすぐに気付く。三佳は「アダチの社長の娘」ではなく、2年前の事件に関わった「A.CO.の所長」に引き取られたからだ。
 ぴたりと、史緒は足を止めた。三佳が見ると、史緒は驚きの表情で大きく目を見開いていた。心当たりがあったのだろうか。
「───…クラナミ?」そう、口の中で呟いた。三佳はそれを聞いた。「まさか…」
 そしてかぶりを振って振り返る。「蔵波周平…!?」
 史緒のその声は微かに震えていた。
 男の口元が嬉しそうに緩んだ。息を弾ませてさらに駆け寄ってくる。
「そうだ、…あの子」
「待ってッ! 何も言わないで!」
 史緒は厳しい声で制止した。隣にいた三佳が思わずびっくりするほど、鋭い声だった。
 史緒は引き締めた唇を微かに奮わせて、倦ねるような表情で男と対峙する。その視線を反らさずに、史緒は三佳に声をかけた。
「───先に帰ってて」
 否定を許さない響きに三佳は頷くしかない。
「ああ。…大丈夫なのか?」
「心配ないわ。私もすぐ帰るから」
 聞かれたくない話なのだとわかり、三佳は大人しくその場を去ることにする。
 不穏な雰囲気で見つめ合う2人を気にしながらも、三佳はひとりで駅のほうへ歩き始めた。



 史緒は今、まったく想定しなかった事態───想像もしなかった人物に対面し、正直、動揺していた。
 蔵波と面識は無い。初対面だ。
 でもその名前は知っている。8年前に、一応の情報として聞いた名前。それから一度も耳にしていなかったので、思い出すのに時間が要った。
 会いたくもない人物だ。
「社長の娘が俺を知ってるとは思わなかった」
 と、蔵波は笑って見せた。その笑いは嫌みが込められている気がして史緒の癇に障った。
「…知らないと分かってて呼び止めたんですか」
「衝動さ」
「何故、私が阿達だと?」
「社長の娘の名前は覚えてたんだ、変わった名前だから。さっき、峰倉薬業の社長とバイトの子があんたの名前を呼んでただろ」
 まず、何より先に、史緒は「あんた」と呼ばれるのが気に入らなかった。父親と同年代の人間に礼儀が無いのは情けないと冷笑するのを通り越して憤りさえ覚える。峰倉のほうがよほど常識的だ。
「あの子があんたと居るっていうのは本当なのか」
「誰のことでしょう?」
 史緒は完璧なポーカーフェイスで答える。しかし誰のことかは分かっていた。
 史緒の嫌悪感がまったく伝わらないのか、蔵波は真顔で返した。
「8年前、七瀬夫妻の子供が怪我しただろう。あの子だ」
 頭が、痛くなった。

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