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≪5/7≫
「髪、濡れてるよ」
傘ささないで来たの? と司が苦笑した。タオルを持ってくるとそのまま三佳の頭にのせ、わしゃわしゃと掻き混ぜる。三佳はされるがままにじっとしていた。小さな水滴が散って、床に落ちた。
5分前、事務所で窓の外を見ていた史緒が突然言った。頼むから司のところへ行って欲しいと。その言葉は訴えかけるような重みがあって、三佳は口答えひとつせずに出かける準備を始めた。といっても司のもとへ行くのに、文句などないが。
「司」
「ん?」
「何かあった?」
半瞬の間の後、「何もないよ」と司は静かに微笑んだ。「本当に」
「ならいい」
タオルの中で三佳が答えると、司は三佳の頭からタオルを下ろした。三佳が顔を上げると、司は真顔で「あのね」と話しかけてきた。
「多分、三佳は8対1.5対0.5くらい」
と、言った。
普通、比率は自然数でしか表さない。この場合、1対1を区別したかったのだろうと三佳は理解したが、司の言いたいことはさっぱりわからなかった。
「なにが?」
と尋ねる。司はすぐに答えた。
「状況把握に使われる感覚のうち、視覚・聴覚・嗅覚の割合。健常者は聴覚と嗅覚の差がもうちょっと顕著なんだけど、三佳は意外と鼻が効くから」
視覚が8、聴覚が1.5、嗅覚が0.5。本当はさらに、味覚・皮膚感覚・運動感覚・平衡感覚・内臓感覚があるのだが、前の3つに比べれば微少なものだ。
「僕は0対8対2ってとこ」
「…」
司は明るくさえ見せる表情で淡々と語る。2人とも突っ立ったままだったが、そのまま一歩も動かなかった。外では相変わらず雷が鳴り雨が地を叩いていた。
「聴覚を奪われたら僕は動けなくなる」
まっすぐに、三佳に向かい、言う。
「だからこういう日はダメなんだ。史緒はそれを知ってるから、こういう天候の日に僕の様子を見に来ることがあって…。───確かに、ひと一人隣にいれば雨風の音なんか気にならなくなるんだけど、甘やかされてるようで嫌なんだ」
史緒と司はもう8年の付き合いになる。司のそういう弱い部分を史緒が知らないはずがなかった。このような理由もあり、最初に史緒は司との同居を提案していたが司がそれを断わった。彼のプライドがそうさせるのだろうということも、史緒は知っていた。
「今まで三佳には気付かれないようにしてた。情けない僕を見られるのが嫌だったんだ」
「…」
三佳も。司が弱音を吐くのを初めて聞いたような気がする。今、そのことに対する少しの驚きがある。
いつも見せてくれている表情がすべてではないと、勿論、わかっていたはずなのに。
外ではまだ嵐が吹き荒れている。
「今も…感覚、辛い?」
司はやわらかい笑みを見せ、三佳の肩に手を回した。
「今は大丈夫。三佳がいるからね」
*
先程と同じようにベッドを背もたれに司が床に座ると、三佳もそれに倣って隣に腰を下ろした。
司は言葉少なく、三佳の手を握り、膝に顔を落としていた。風雨の音を振り切る為に、三佳の呼吸を聞くことに集中しているのだが、三佳はそこまでは気付かない。
同じような嵐の轟音が鳴っているはずなのに、今は遠く聞こえる。時計の音がすぐそこにあり、家電の微音が聞こえる。数分のうちに司はいつもの感覚を取り戻していた。自分の部屋の広さが把握でき、どこに何があるか、頭の中で配置することができる。もう大丈夫だ。頭痛も遠ざかっているのが分かった。
その間ずっと、三佳は何も喋らなかった。気を遣ってくれているのだと、司は今気がついた。
「三佳」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
そしてまた沈黙。
先に口を開いたのは司のほうだった。
「祥子の卒業式の日、史緒が言ってたこと覚えてる?」
「どれのこと?」
「昔、悪口言われたことあるって」
「ああ、祥子以外からも嫌いだって言われたっていう…」
祥子の卒業式はもう3ヶ月前のことだが、三佳は覚えていた。
史緒は幼い頃に言われた悪口を今でも覚えているという。執念深いということだ。
「それ言ったの、僕だよ」
「えぇッ!?」
あまりの衝撃に倒れるように後ろに手を着いた三佳。司は真顔で訊いてくる。
「驚いた?」
「そりゃあ…」
驚かずにいられるか、と三佳は驚きのあまり口にできなかった。
司と史緒の付き合いが長いのは知っている。その長い間、どんな風に過ごしてきたかなんて知らない。
しかし、司は当人を前にして悪態を吐くような性格ではない。それだけは自信をもって言える。そう、例え心の中でどんなに蔑んで見下して卑しんでいても。
と、三佳はずいぶんなことに確信づいてみたものの、ふと、思った。
確かに、司のことについてそう言い切れるものの、それらすべて「三佳の知る限りは」という冠詞が付くのだ。
「少し、昔の話をしてもいい?」
「───…いいけど、司は」「うん、三佳に聞いてもらいたくなった」
「目が見えなくなってすぐに阿達家に引き取られた…っていうのは、確か言ったことがあったと思うけど、それと同じ頃だよ」
司の横顔が、遠く懐かしむような表情を見せていた。
「その頃の僕は本当に荒れててね。五感のひとつを奪われただけで心身共にズタズタ。いや、これはホントに。しょっちゅうどこかにぶつかって怪我だらけだし、ストレスは溜まるしさ」
明るい声で司は自分の過去を喋る。無理はしてないようだが、雰囲気を暗くしないようにと気を遣っているようだ。
「当時、僕は今の三佳と同い年だけど、もしあの頃の僕が三佳と出会ったら、きっと拙い言葉で酷いことを言った」と、語る。「あの頃、僕に味方はいなかった。…というより、僕が誰も信じてなかったんだ」
「眼科医、外科医、精神科医に掛かってたけど医者だって信用はできなくて、僕は周囲に酷いことばかり言ってた。威嚇…みたいなものかな。人の気配が近づくのが本当に恐かった。敵か味方かわからないんだ」
司はそこでふと、遠くを見るように顔を上げた。そして唇だけで笑う。「…そうだね、あの時はまるで」
「どこから何がくるか解らない、暗闇にいるようだったよ」
「───」
三佳は息を飲み、目を見開いた。
「なんて…、そのままか」そう、司は笑ったけれど。
暗闇にいるようだ、と。
三佳はその台詞に背筋が寒くなるのを感じた。例えば史緒や篤志が同じように言っても、こんな風に感じなかっただろう。───目の見えない司にそんな風に言わせるなんて。
彼はどんな危機感や孤危感をもって、今、ここに座っているのだろう。
そう考えたら、三佳は恐くなった。
知っていたけれど。司が気を休められるのはこの部屋の中だけだと。表には出さない無意識の緊張があることや、他人の感情を読む努力をしていること、知っていたけれど。
「三佳」
ハッと我に返る。司がこちらを向いて笑っていた。
「今は暗闇じゃないよ。僕は別の目で世界を見てる。そういう訓練をしてきたんだ」
*
「あの頃、阿達の家には…10歳の史緒と、大学生だった和成さんと、通いの家政婦さん、もうひとり、…なんというか、いじめっ子がいてさ」
「いじめっ子?」
三佳が聞き返すと、司はにやっと笑って大きく頷いた。「いじめっ子」
「…ははは、すごい、ぴったりかもその表現。目の見えない僕はよく標的になってたよ。史緒は史緒でその子から逃げるように部屋に閉じこもってたし」
そこまで言ってから司は「…と、ごめん、これはオフレコ」と苦笑した。自分のことだけでなく、史緒のことまで口走ってしまったことに後悔したのだ。
「いじめっ子からの仕打ちにストレスを溜めていた僕はつい史緒に八つ当たりしたわけ。おまえのことも嫌いだってね。結局その後も和解しないままだった。ひとつき経った頃、僕は香港へ移ったし、史緒とはそれきり顔を合わせなかったから。
香港へは目の治療の為に行ったんだけど、その間ずっと蓮家のお世話になってたんだ。蘭とはそのときに知り合った。流花さんは医師だったし、他の兄姉たちにも色々と教えてもらえたよ。楽器やゲームとか、ちょっとした護身術みたいなのも」
「流花さんって眼科医なのか?」
「いや、行動心理学の先生。ちょっと畑違いだけど多才な人なんだ。時間や距離の計り方とか、音だけから状況を判断する術とか、対人対応とか教えてもらってたよ。
僕は自分が他の視覚障害者とは一線を画す能力を持っていることに自覚があるけど、それは香港にいた2年の間、療養ではなく訓練をされていたからだ」
司は自分の能力に自信を持っている。過信や慢心で無く、常に自分のちからと等価なものだ。自分の能力を測る訓練さえやってきた。司の日常の行動はこの自信に支えられているといっても良い。
「たまに自分の境遇に驚くことがあるよ。日本と香港に、大きな後ろ盾を持っていることにさ」
司は笑いながら言ったが、それは本当に大きすぎる後ろ盾だった。両方とも知らない者のほうが少ない名である。
「……」
三佳は以前から不思議に思っていた疑問を、司に訊いてよいものか悩んでいた。
97年の返還パーティのとき、蓮家兄姉と司がどういう繋がりで仲が良いのかわからなかったけれど、それは今の司の告白で説明された。
司と蓮家の繋がりはわかった。けれど。
司と阿達家の繋がりは、一体、どういうことなのだろう。
微妙な質問のような気がして、三佳はそれを口にすることができなかった。
「史緒は、僕に負い目があるんだ」と、突然、司が言った。
「…負い目?」
「そう。史緒には全然関係ないのに、史緒が勝手に背負ってる負い目」
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