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 鼓動がゆっくりと走り出す。だから熱い。
 風が吹いただけで感動するなんて。
 無意識に立ち止まっていたので、つないでいた手が引っ張られた。「司?」
 今、きっととても広い場所で、僕らは突っ立っている。そう、広い場所に。
 とても広い場所に。
「…もう見えないの?」
 小さく呟いていた。
「難しいな」
 驚いたことに、あれだけの言葉で伝わったらしい。言い直そうとしていたのに。
「悲しい?」
「違う」
 この気持ちは絶望じゃない。悲しみでもない。
 以前の僕が当然のように見ていたものが今は見られない。あの頃は当たり前のように見ていた。「見ている」ことさえ意識してなかった。見ているくせに見えてないもの、きっと沢山あった。
「…悔しいんだ」
 もう遅い。今、そしてこれからも。
 もう見せてもらえない。
 ふわっと新しいあたたかい風が吹いた。
 苦笑した。
 どうしてこれしきのことで胸があったかくなるんだろう。大丈夫だと思えるんだろう。
 本当に不思議だった。
「もう少し先で一休みしよう」「うん」
 また歩き出す。
 しかしすぐに立ち止まった。
「───ねぇ」
「なんだい?」
 振り返る。一点に集中する。
「誰かいる」
 おじさんも振り返ったらしい、僅かに手が引かれた。「…おや」と呟いた。
「きゃあ、見つかっちゃいましたーっ!」
「!」
 離れた所から高い声が響いた。
「え…っ、蘭?」
 思いもよらない、久しぶりに聞いた声。
「なんで分かったんですかー、あたし、すごくすごく注意してたのにぃ」
 小さい足音が駆け寄ってきた。ブレーキをかけずにおじさんに体当たりしたようだ。
「父さま、流花ちゃんには秘密にして! ね!?」
「どうして」
「しばらく司さんと会っちゃいけないって、言われてたの」
「ははは、いいよ、わかった」
「司さんがこっち向いたとき、ほんとに飛び上がっちゃいました。なんで分かったのぉ?」
「そうだね。司、どうして分かった?」
 2人がこっちを向いた気がした。突然、質問されても、僕に答えはなかった。
「え、どうしてって……、何となく」
(あ、足音かな?)
 後から気づいた。
「ずるーい、それじゃ答えになってませーん」


*  *  *


 日差しの暑さが少し和らいだ。「今、日陰に入ったよ」とおじさんに教えられ、(ああ、そうか)と納得した。
 おじさんは大きな木の陰に僕と蘭を座らせて、その間に腰を下ろした。
 地面は短い草が生えてる。なんか…、久しぶりに植物に触った気がする。
 小さく雨が降る音がした。でもそれは雨じゃなくて、樹木の葉と葉が風に揺れる音だった。
 蘭が喋らなくなったと思ったら、「眠ってる」とおじさんが囁いた。声を抑えて笑った。
「今、何時くらい?」
「3時を回った。…昼間のな」
「それくらい分かるよ」
「どうして?」
「え?」
「どうして昼間だとわかった?」「……」
 聞き返されるとは思わなかった。
 確かに僕には夜中の3時も日中の3時も、同じように真っ暗だ。だから自分で昼と夜の区別をするにはそれ以外の要因が必要になる。
「…えっと、おじさんや蘭が外に出てるし、さっきお昼ご飯を食べたし」
「それだけ?」
「え…、だって、昼間は昼間だよ」
「どうして?」
 しばらく考えて、息を吸った。…ちゃんと分かってる。
 今が昼間だって分かってる。何故なら。
「───…暖かい。太陽が出てるのが分かる」
 声が震えた。
 ああ、言葉にするってすごい。
 昼間だってことは当然のように分かってた。思いこんでた。暖かさも感じていた。
 言葉にすることで、それらがすべて繋がった。
 その小さな感動に驚いた。



「両親のこと、辛いかい?」
「……そんなの、わかんない」
「考えてみなさい」
「わからないものはッ、……わからないよ」
 あやうく大声で叫ぶところだった。蘭が寝ていることを思い出し、どうにかそれを留める。
 よく考えなさい。流花はよくそう言う。
 でも、よく考えてしまうのは怖い。気づかずにいれば良かったことさえも見えてきそうな気がして。
 特に両親のこと。
 僕を捨てた理由。…胸がムカムカしてきた。
 おじさんが僕の頭を撫でた。
「日本が懐かしいかい?」
「べつに」
「友達はいっぱいいた?」
「ふつう」
「目が見えなくなっても、一緒にいてくれるような人はいた?」
「…お父さんとお母さんがそうだと思ってたッ」
 小さく吐き捨てた。爆発したような感情。
 声を小さくしたのは、寝ている蘭に気を遣ったせいもあるし、それに、この小さな口から出すにはこの気持ちは大きすぎる。暴れ出す激情に体がいっぱいだった。すべて吐き出せなくて苦しかった。
 どうなっても、一緒にいてくれると思ってた。…ううん、そんなこと考えもしなかったけど、無意識に思ってた。
 両親は僕に対して、勿論、義務もあるだろうし、それに、愛情もあったと思う。
 それなのに何で置いていったの? 責任取るのが嫌になったの? 面倒見るのが嫌になったの?
 これ以上深く考えるのは、本当に本当に本当にこわい。
 よく考えてしまうのはこわいんだ。
「司」強い声で言う。「他人の噂は信じるものじゃない」
「でも誰も本当のことを教えてくれないじゃないか、だからいろんなことを考えちゃうんだ」
「どうして他人からの言葉を欲しがるんだ? そのうちのどれかひとつでも真実だと信じているのかい?」
「…っ」
「世の中は善人ばかりじゃない。無責任な噂はもとより、嘘を吐く者、騙そうとする者もいる。他人を信じるな。本当のことを知りたいなら、自分で考えて、自分なりの答えを出すしかない。───両親との別れにはいずれ、司は司なりの解釈をし、結論を見出すだろう」
「誰の言葉も信じないで平気なの?」
「まさか」
「だって…」
 そう言ったじゃん。
「この先、今は想像もできないような他人と出会う。その中には、信じる信じないという言葉すら必要ない関係になる他人もいるかもしれない。」
「───」
「…今は流花が教えることをよく聞いておきなさい」
 おじさんはそう付け足すと、会話を終わらせた。
「さぁ、司も少しおやすみ」肩を引かれ、ころんと寝かせられた。膝の枕に。
「目が覚めたら違う世界が見える」
「見えないよ」「見える」
 草の匂いがした。
「……」
 暖かい空気のなかにいる。蘭の寝息が聞こえる。
 汗ばんだ額に風が通り抜けた。
 今、ここに限りない空間があって、手の届かない青空が頭上に広がっていること。
 確かに感じていた。


 目が覚めても、やっぱり何も見えなかった。当たり前だけど。
 でも蓮老人の言葉の意味を、長い時間をかけて、流花さんの授業を受けながら、僕は理解していった。
「なんで阿達のおじさんと蓮家の人たちは、僕の世話、見てくれるの?」
 流花さんに訊いてみた。
「阿達のおじ様はやっぱり責任を取ってるつもりなんじゃない?」
 と、流花さんは答える。
 それは僕にも何となくわかる。
「私たちは…そうねぇ。最初はやっぱり、頼まれたからね」
「誰に?」
「私は、父様に頼まれたわ。こういう男の子がいるから面倒見てくれって」
「おじさんは?」
「蘭に頼まれたみたい」
「…蘭は?」
「少しは自分で考えなさい」流花は苦笑した。
「でもね、阿達のおじ様も父様も、自分の能力を知り向上心がある人間がお好きなの。その点で、お二人は似たもの同士だわ。つまり、あのお二人に気に入られてるのよ、司は」
 そういうものだろうか。
 よく分からなかった。


 それでも泣くことがあった。
 情けないけど、流花さんの厳しさに。
 それから何もかもうまくできない自分に。流花に反論する言葉を知らない自分に、泣けた。
「あのね」ぽんと頭を撫でられる。「関係ないけど、ひとつ話をするわ」
「この経験が自分を支えている≠チていうのは、誰もが持ってるものなの。良い思い出か悪い思い出かは人それぞれだけど、でも、皆、持ってるものなの。
 時々、自分を支えているはずの記憶が重くなって…辛くなるときがあるわね。心の内にずっと抱えていた想い、吐き出せたらきっと軽くなる、誰かに聞いてもらえたらきっと楽になる。───でも、吐き出すのは怖い。今まで自分を支えてきたものが確実にひとつ消えるわけだから。楽になるけど弱くなってしまうから。だからいつも、誰かに何かを打ち明けるのはとても勇気がいることなの。
 だけど同時に、ひとつ、強くなる。想いを打ち明けられることができると自分が選び、そして聞いてくれた相手の存在が、その信頼が、きっと新たに自分を支えてくれる。強くしてくれるわ」
「…よくわからないんだけど。何の話?」
「今、司が感じている苦しさや辛さが、将来の支えになるはず、っていう話よ」
 流花さんは真面目な声で言う。
「それから、司は将来、信頼できる誰かと出会えて、その誰かに、今感じている泣き言を聞いてもらうことになるかも、っていう話」
「泣き言なんか言わないよ。恥ずかしいな」
「さぁ、どうかな」
「言わないって」
 ムキになって答えると、流花さんはクスクスと笑った。


end

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