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 おじさんの手は冷たかった。
 僕の手から熱が伝わり、すぐに分からなくなってしまったけど。
 おじさんは喋るのと同様、歩くのもゆっくりだった。
 玄関へ向かう、長い廊下を歩く。あまりにもゆっくりなので、普通に、隣を歩くことができた。
 カツン、カツンと足音が遠く響く。(……)何て言うか、痛い沈黙ではないけど、微妙に気まずい静けさだ。
 何か話しかけたほうがいいだろうか。でも何を離せばいいかわからない。
 今、こうして手をつないで並んで歩いているけど、完全に手を預けたわけじゃない。少しの緊張がある。もし何か少しでも予測外な物音でもしたら、きっと僕は、手を振り払って身構えただろう。
 でも、今、聞こえるのは足音だけで、他に誰の気配も無かったし、雨や風の音も聞こえなかった。
 外に出た。
 足音の反響音が変わる。風を感じた。さっきとは別の静けさになる。
 以前、蘭とここを通ったときのことを思い出す。芝敷きの庭に、アスファルトの道が続いていると蘭は教えてくれた。そのアスファルトの道を、やっぱり並んで歩く。
 おじさんは何も喋らなかった。
(…)
 どうして散歩に行こうなんて言い出したんだろう。何か僕に用があったんだろうか。流花さんを困らせていることを諫めに?
 そういえば今更だけどこの人、流花さんや蘭の父親なんだ。
(どんな人なんだろう)
 蓮家13兄妹は、長男の晋一さん、長女の流花さん、皆、年齢は僅差で、一人離れて末っ子の蘭がいた。彼らの母親は7人いる。もう、誰が誰の母親か覚えるのも一苦労だけど、本人たちはそんなことは別にどうでもいいようだ。全員が彼女らの子供であり、逆もまた同じだという。
 広い家。蓮家の家族以外の人たちも沢山いる。彼らは、皆、陽気で親切。多分(言葉は林さんが訳してくれてるので直接的なニュアンスは分からない)。
 この家の主がこの蓮瑛琳だ。
 大きな仕事をしているって聞いた。阿達のおじさんのように、会社の社長とか、そういうものかもしれない。
(どうして僕をここにいさせてくれるんだろう)
 阿達のおじさんとどういう関係なんだろう。
 櫻と史緒のことも知ってるのかな。
(どうして僕はここにいるんだろう)
 退屈になるくらい、平坦な道が続いていた。終わりが無いんじゃないかとさえ思った。
 おじさんは何も喋らなかったし、途中、誰にも行き会わなかった(数十人はこの屋敷にいるはずなのに)。僕らの足音はまるでメトロノームのように単調に一定に響いた。背中がむずむずしてきた。
(…)
 とうとうこの沈黙に耐えられなくなって僕は尋ねた。
「どこへ行くの?」
 蓮老人は答える。「道のりを楽しむのが散歩だ。到着点に意味は無い」
 そんなことを聞きたいんじゃないのに。
「…何で僕を連れ出したの?」「散歩をするためさ」
「どうして散歩するの?」「外に出ると気持ちがいいからだ。司はどうだい?」「…思わない」
「ねぇ、林さんは?」「さぁ。どこかには居るだろう」
「歩くの遅いね」「わたしは年寄りだ。気遣っておくれ」
「蘭と最近、会った?」「あの子はいつも会いにきてくれるよ」
 ああ、それは何となく簡単に想像できた。会いたいのに、多忙なため会うことができない父親。蘭なら何の勢いもいらずに、走って、会いにいってしまうだろう。
 さらに僕はどうでもいいことをおじさんに話し続けた。沈黙よりは楽な気分だった。
 おじさんはそれを聞き、丁寧に相づちを返してくれていた。
「ねぇ、もうどれくらい歩いた?」「距離か? 時間か?」「どっちも」
「急ぐような用事があったのか?」「ないけど」「では何故訊く」「なんとなく」
 ───そういえば何でそんなことが気になったんだろう。
 一旦、会話が途切れると、おじさんは話しかけてこなかった。
 さっきから質問を投げ続けていたのは僕のほうで、おじさんはそれに答えてくれていただけだ。ちょっと煩わしく思われたかもしれない。
 そう思って、また少し黙っていると、今度はおじさんから話しかけてきた。
「何歩、歩いたか数えてみなさい」
 歩数?
「それから後で林に、一歩が何センチか計ってもらうといい」
「…掛けると距離が出る」「そうだ。頭がいいな」
 そっと、頭を撫でられた。髪の毛の上からだったのに、その手のひらの熱がじんと伝わってきた。
 温かかった。
(…。それくらい常識だよ)
 頭に伝わる熱を感じると、つないでいるほうの手も同じように温かく感じた。
 おじさんの手はつるつるでしわしわだった。駄菓子屋のじぃちゃんと同じ手。蓮老人は何歳なんだろう、じぃちゃんと同じくらいか?
(1、2、3…)
 やってみることにした。歩数を数え始める。
 僕らはゆっくり歩いていたので、その早さで数えるのは簡単なはずだった。
 ところが順調に数えていたはずなのに、
(一歩が30センチとして、3歩で約1メートル…30歩で30メートル…)別のことを考え始めてしまい、
「あっ! 数えるの忘れてた!」
 と、我に返った。
「焦らなくていい」
 おじさんはそう言ったけど、もう一度同じ失敗をしたときは、さすがにちょっと恥ずかしかった。
「最初はそういうものだ。繰り返せば意識しなくてもできるようになる」
 その後、しばらく歩数を数えるのに夢中になった。
 簡単なことのはずなのに、何回やっても500までは数えられなかった。
 途中、数えてない自分に気づいて「あ」とか「う」とか僕は声をあげて、また1から数え始める。やっぱり100を超えたあたりで、「数えること」が思考から剥がれてしまうような感じがする。無意識に別のことを考えてしまっている。それと逆に、何も考えない状態になってるときもある。ぼーっとしてるだけかも。そしてまた我に返る。
 数も数えられないと思われるのは癪なので何度も繰り返した。
「…あっ、また」
「焦らなくていいよ」
 1、2、3…
 右足が奇数。左足が偶数。3桁になると数えにくくなって、一歩の早さに着いていけなくなった。
(…あれ)
 ふと、懐かしいもの感じた。
(そういえば、これ。…通学路でやってた)
 家から学校への道のり、決められた通学路。帰りは寄り道しながら帰るので、たいていは朝の登校時間。
 家から学校までの排水溝コンクリートはいくつ並べられてるかとか。
 家から学校まで何歩で行けるかとか。
 友達と一緒に。ふざけて邪魔し合ったり、遅刻間際に走りながら。信号待ちの間に次の数を忘れてしまったり、テレビやゲームの話に夢中になったり───。
「……」
 少しだけ涙が滲んだ。そんなに遠くないはずの日常を思い出して。
 まるで遠い昔の出来事のだようだけど、確かに現実だった。
(…そういえばあの頃も、一度も成功したことが無かったような気がする)
 何分も数を数えるのはもしかしたら難しい事なのかもしれない。あの頃もそう。そんなことやってられない程、僕らはお喋りや遊ぶことに忙しかった。
「───…あれ?」
 そんなことを思い出していたら、また数えるのを忘れた。最初からやりなおしだ。
 おじさんが微かに笑った。
 1、2、3…
 どのくらいの時間が経ったか分からない。
 歩いているうちに汗を掻いてきて、息が上がってきた。
 鼓動が聞こえた。自分の心音。
 おじさんと僕の足音の、微妙なずれ。不定期なリズム。
 少しずつ無口になる。我に返ったときの呻き声さえ忘れる。
 風の音や葉擦れ。
 小さな砂利を踏みしめる音。
 草の匂い。
 自然と、顔を上げた。
 風が吹いた。
 それは不思議な感覚だった。
 耳のシャッターが突然開かれたような鮮明な音。
 体に染みこんでくるような植物の匂い。
 包まれている。
 360℃を感じた。神経や感覚が働きだし、何故だか額が痛くなる。心地よい痛みだった。
 …腕が温かい。
(あぁ)
(今日は天気がいいんだ)
 無意識に仰ぐ。
 もちろん何も見えない。でも、顔に熱を感じた。包まれるような柔らかい熱。
 太陽が出ている。
 わかる。きっと空は青い。その青さを忘れずに覚えてた。

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