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4.阿達家U
香港で2年間を過ごした。
後から思い返しても、人生のなかで一番、密度が濃い時期だったと思う。得たものは限りなく多く、手放したもの、諦めたものもあった。何より辛かったし、泣く程の努力ができた体験は貴重だ。
そしておそらく、最も変化した時間。
日本へ帰ってきたとき、僕は14歳だった。
帰国後、一番最初に会いに行ったのは阿達政徳氏で、場所はアダチ本社ビル社長室。
阿達がまとまった時間が取れなかった為に、社内での面会となった。僕は初めてこの部屋に入った。
「お久しぶりです、七瀬司です。また、お世話になります」
「随分……、成長したようだな。内も外も」
という阿達の言。その声に微かな驚きが読みとれて、僕は大いに満足した。心の中だけで笑った。
これがこの2年の成果だ。
阿達政徳、57歳。アダチグループ総裁、事実上のトップ。おそらく、僕が見えなくなった事故の原因・状況・事後処理を最も把握しているうちの一人だろう。驚異的に多忙な人だから滅多に会う機会は無い。けど、もし、2年前の事故について知りたくなった場合は、この人に尋ねる外、無いと思う。
この日、僕はおじさんとひとつの約束をさせられた。
それは今後6年間という長い期間の自分を束縛させるものだった。僕の立場上それは当然のことと納得できたし、これからの行動の指針にもなる。僕にとってはある意味ありがたいものだ。
「いくつになった」
語尾は下がっていたけどこれは質問だ。おじさんがこの質問の答えを本当に知らないのか、知っていてわざと答えさせようとしているのかを考える。きっと後者だ。
「14歳です」
「20歳になるまでは私が後見人になる」
「宜しくお願いします」
「必要なものがあれば和成に言え。学業や趣味なども、できる限り力になろう。遠慮している暇あれば、自分を高める方へ、労力を費やして欲しい。───これは2年前の事故の賠償ではないよ。優秀な人材を育てることへの投資だ」
ただひとつ条件がある、とも。
「20歳までに、自分の進むべき道を選ぶこと。どんな仕事に就き、どうやって生活していくのか考えろ。そこまでの勉強、生活…前にも言った通り、そのための投資は惜しまない」
遊ばせるつもりはない、ということか。
(どっちにしろ慈善事業だと思うけど)
本心から、ありがたいことだとは思う。独りで生きられない、阿達の世話にならなければ僕には寝る場所も無いことは分かってる。こんな好条件で受け入れてくれることに、感謝しなければならない。僕には、他に受け入れてくれる身寄りも無いのだから。
「質問があります」
「なんだ」
「僕の両親が、どうしているか」
「!」
それを聞いたおじさんが息を飲むのが聞こえた。回答に詰まるのがわかった。
(…すんなり答えてもらえるとは思ってなかったけど)
しばらく待っても、おじさんは言葉を発するための息を吸わなかった。社長室の中の静かな空気は変わらなかった。
質問を変えることにする。
「僕の両親がどうしているか、おじさんは知ってるんですか?」
遠回しな表現にしてみた。
するとおじさんは苦しそうな溜息を吐いて、
「知っている」
と答えた。
「───じゃあ、いいです」
「司」
「すみません、忘れてください」
僕は頭を下げて謝り、質問を取り下げた。おじさんは何か言いたそうだったけど、それを聞く気にはならない。
両親のことを知りたいとは思わない。できるなら忘れたいと願う。
なのに矛盾する質問を口にするなんて。
それをおじさんに聞いてまったのは、明らかに僕の弱さで、修行不足の現れだ。僕の師である流花さんや蓮老人がここにいたら、嫌みのひとつも言われてたと思う。
(帰国早々これじゃ、先が思いやられるなぁ)
昔のことはできるだけ忘れて、新しい生活に馴染まなきゃいけないのに。
僕はもう一度、阿達に謝罪の言葉を口にした。
* * *
迎えに来てくれた一条和成に連れられて、約2年ぶりに阿達家に戻っても、あまり懐かしさを感じなかった。忘れずによく覚えていた、という意味ではない。あの頃は今のような感覚能力も無くて、目隠しをされて壁伝いに歩いていたようなものだから、家についての(例えば、間取りや家具の配置など)記憶はまったく残って無かった。たった一月しかいなかったせいもあるだろう。
当時の自分の状況判断能力は当てにならない。すべて最初から覚え直しだ。
「まぁ! 司くん!? …ずいぶん立派になられて、ええ、おかえりなさい」
「こんにちは、マキさん。またお世話になります」
阿達家の通いの家政婦、真木敬子。37歳。既婚。この家では和成より古株だというから、おそらく阿達の人間以外で、この家のことを最もよく知る人物。
再会を喜ぶ振りをしつつ、情報を頭にたたき込む。これはもう。ほとんど無意識の作業。
和成がマキに訊いた。「櫻は?」
「今日は戻らないと連絡ありました」「史緒は?」「お部屋に」
一条和成は23歳。この家の居候(阿達との関係、立場など、僕は知らない)。大学生で、阿達家の長女・史緒の家庭教師だという。
「今、挨拶しとく?」和成が訊いてきた。史緒に会わせておこう、という思いらしい。
「…うん」
少しだけ迷って、頷く。
その迷う時間、返答のほんの少しの遅れを、蓮流花はとても嫌がる。その迷いを相手に悟られるなと教えられた。
(でも)
迷うだけの理由があった。
「おまえのことも嫌いだ」
2年前、史緒に言ったことがある。今思うと赤面モノの子供じみた八つ当たり。
史緒と馴れ合うことは無いだろうけど、これから同じ屋根の下で暮らすわけだし、余計な確執は無いに超したことは無いし、謝れるものなら謝っておこう。少しの自尊心を犠牲にしてでも。
「史緒」
2階、扉の前で和成が呼ぶと、部屋の中でキィ(椅子?)と小さく鳴った。少しの間。
引きずるような足音がした。同時に、全く別のトトトッという軽いステップ。後者は4本足だということが聞いてとれる。
───今更ながら、流花がくれたこの能力は偉大だ。2年前この家にいた時は、足音さえ聞こえなかったというのに。
ドアのすぐ向こうに足音がたどり着いても、まだ逡巡があるようで、また少しの間がある。
このあまりにも無駄な時間に何も言わず付き合っている和成にも、少しだけ呆れた。
やっと、微かにドアが開く音がした。
「…なに」
ぼそっと、女の子の声。言葉を伝える気があるのか怪しいくらい小さな声だった。
この声が阿達史緒、僕よりひとつ下で13歳。普通ならば中学に通うところだが、和成に勉強を教わっているという。
そして足下から聞こえる軽いステップは「ネコ」だ。
「七瀬くんだよ。またここで暮らすから」
「よろしく」
印象を悪くしない程度の笑顔を見せる。
何を言われるかと構えていた、しかし返ってきたのは尻上がり調の呟きだった。
「ななせ…?」
誰だっけ。
と続きそうな響き。
(忘れられてたのか)
拍子抜けだった。
出国前の暴言をどう謝ろうかと、散々シミュレーションしてきたのに。
*
「でも、史緒さんは最近になって落ち着いてきましたよ。櫻さんが大学生になって、外出が増えたからだと思います」
台所仕事をしながらマキが言った。その声は心なしか嬉しそうだった。彼女も、櫻と史緒の関係を案じている一人なのかもしれない。
櫻は外出することが増えたというその言葉通り、帰国してから2週間、櫻と顔を合わせる機会は無かった。
*
目の前に人の気配を感じて足を止めた。その気配を分析するより早く、足を止めた。
そして耳を澄ます。呼吸を聞く。史緒、マキ、和成、…皆、違う。帰国してから聞いたものじゃない。
(まさか───)
「櫻?」
フッ、と吐息が聞こえた。笑った。
「惜しい。あと一歩進んでたら、目蓋に刺さってたのに」
低い割に滑舌の良い声。
「え」
「冗談」
すぐに声が返る。一瞬で凍った体がゆっくりと溶け出した。「何が刺さるとこだったの?」
「知らないほうが恐怖心を煽る」
その通りだった。恐怖心をやわらげる為に、僕は確認したのだ。
そして恐怖心を煽る為に、彼は答えなかった。
彼が阿達櫻。
18歳。都内の大学に通っていると聞いた。阿達家の長男、史緒の兄。
「七瀬が戻ってるってマジだったんだ」
高い位置から声が聞こえる。僕だけじゃなく彼も背が伸びていた。
「またここに住むわけ? へーぇ、図々しいと思わないかな、普通」
「…」
「親父も気色悪い同情はやめて、その辺の施設に投げときゃいいのに。外聞を気にしすぎだ」
脳が締め付けられるような緊張感がある。心拍数が上がりそうになるのを必死で抑えた。
咽せるような煙草の臭いがした。
「僕のこと、誰かから聞いてたの?」
会話を無視して質問すると櫻は鼻白んだようだった。
「咲子」
と短い答えが返る。
(サキコ…?)
「誰?」
「そのうち呼ばれるさ。向こうも七瀬に会いたがってる」面倒くさそうにかわす。「それにしても…」
笑いを堪えきれないように吹き出した。
「結局、見えないままなんだ?」
あはは、と大げさに声を立てて、櫻は笑った。
櫻が笑い出す前に、少しの間があった。もしかしたら、僕の視力を何らかの行為で確認したのかもしれない。
「あのじーさんなら、どんな手でも使うと思ったけど、今度ばかりは金と人脈じゃ済まなかったわけか。いくら離婁の明を仕込まれたとしても人生80年、先は長いぜ? ご愁傷様」
「……そんなことないよっ」
ムキになってしまった。
今更、見えないことを指摘されて心を痛めたりしないけど。
胸に靄がかかったように気分が悪い。
僕をからかうことに飽きたのか声がそっぽを向いた。
「まぁ、邪魔さえしなければ七瀬に用は無いよ」
足音とともに声が遠ざかる。
「阿達の中で適当に遊んでろよ、死ぬまでさ」
「───」
たったそれだけの台詞に、惜しみない悪意を感じた。
(なんで、こんな風に言われなきゃならないんだ)
櫻も史緒も、あまり好きになれそうになかった。
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