キ/GM/31-40/32
≪11/11≫
1997年1月───
僕は杖を突きながらゆっくりと前進した。
一人でこんな鬱蒼とした林の中を歩いた経験は後にも先にも無い。植物の匂い、むわっとする不快な草いきれ。単に湿度が高いだけじゃない、雨の匂いがした。そしてそれらすべてを吹き飛ばしてしまうような、強く冷たい風が吹いていた。波の音が下から聞こえていた。
(そのうち雨になる)
昼頃から気温が下がってる、湿度も高い。青空では決して無く、きっと黒灰色の雲が広がってるだろう。雨が降り出す前に早く戻らないと。
足場も悪い。地面は平らだけど、一面、砂利敷き。一本道だけど、右へ左へとカーブする、蛇のような道のりだった。
左右には常緑樹の林が広がっていると聞いたけど、何の木かは知らない。
植物に囲まれ、人気が無く、本当に先へ進んでいいのか不安になった。
潮の匂いが嗅覚を鈍らせていた。それから岩場に叩きつける痛々しい波の音。
風が強くてうるさい。狭い空洞に吹き込んだときのように、空気を振動させる音がさっきから耳を痛めていた。
心拍数を変動させないようにゆっくりと歩いていたけど、それでも息が上がっていた。不安定な足場や土地鑑の無い場所に、いつも以上に気を遣っているせいだろう。
(…どっちかでも見つけたかな)
先へ走っていった篤志のことを思う。
胸騒ぎがする。この天気のせいだけでなく。
篤志も何か感じているはずだ。だから僕を置いて、先へ行った。
(だって、あの2人が一緒にいるなんてこと、あるはずないんだ)
こんなことになるなら来るんじゃなかった。
(あの2人が別行動なら問題ないけど)
この林道を戻ると阿達家の別荘がある。そこではマキが待ってるはずだ。
早く帰りたかった。
このあてど無い胸騒ぎを止めて楽になりたかった。
「それ以上来るな! 風が強い」
篤志の声。位置は遠い、多分、篤志から僕は見えないだろう。
でも、大体の方角はわかった。
風が強いことが、どうして前進を禁止することに繋がるのか。しかし篤志の声は危険性を表していたので素直に従った。
ややあって、
「司、あと10メートル直進」
声が近くなった。台詞からも、篤志から見える位置にいることが窺える。「障害物はないから、速く」
注文通り、10メートル前進したところで、篤志が手を取った。
「…うわ」
思わず声を漏らしてしまったのは、真横から強風が吹いたからだ。それは林が途切れたことを意味する。足音の反響音も返らなくなった。広い空間に出たと分かった。
篤志は強い声で訊いた。
「方向感覚はまだあるか?」「大丈夫」緊急性を察して短く答える。
「ここから20メートル先、崖になってる」「! …わかった」
篤志は僕に、別の手を握らせた。細い。そして冷たかった。
「史緒…?」(いたのか)
「こいつ見ててくれ。絶対、離れるなよ!」
強く言い残すと、篤志は僕が今来た道を走って行ってしまった。
彼らしくない、何をそんなに慌てているのだろう。
一方、篤志が探し出した史緒。握っている手をたどると彼女は地面に座り込んでいた。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
手を握ったまま、その場に座る。
史緒は何も答えなかった。ただ、その呼吸だけが聞こえた。不定期に、肩で息をしているのがわかった。
(…櫻は一緒じゃなかったんだ)
少しだけ安心した。
手首を掴まれているのが煩わしいのか、史緒は乱暴に腕を振る。その程度の力で振り払えるわけないのに。
離さないでいると諦めたのか大人しくなった。
どんっ
「…いっ」
史緒が抱きついてきた…というより、胸に頭突きされた。かなり痛かった。
「───」
何か言った。
それは聞こえたけど、意味がわからない。
「史緒?」訊いても、史緒は同じ言葉を繰り返さなかった。
「………わ…たし」
僕の胸で、小さな声が大きく震えた。(泣いてる…?)
抑えて喋ろうとする呼吸が、笑っているようにも聞こえた。
「櫻を、ころしちゃった」
6.A.CO.
3ヶ月後、1997年4月───
屋上に出ると風が吹いていた。
暖かく気持ちの良い春の風。花粉も飛んでいるだろうけど、幸いにも花粉症ではないのでとくに気にならない。
乾いたコンクリートの上に座り、壁に背をかけて上向く。手足を投げ出してみたりする。
心地良かった。大きなものの中にいる、自分という小さな個体を感じる。ただそれだけのことが、良い気分にさせた。
これから長く居座ることになる場所の近くにこういう所があることは幸運と言えるだろう。入り浸ることになりそうだ。
コンクリートを伝って近づく足音がする。階段を上る音。足音は一人分。
該当する人物は二人いるけど、この場合は体重で区別することができた。
足音が速い。もしかしたら僕を呼びに来たのかもしれない。
がちゃり、とドアが開く音がした。
「七瀬くん、こんな所にいたの?」
阿達史緒が現れる。少し息が上がっていた。運動不足を指摘したいけど、改善させたいと真剣に思ってないし、例え言ったとしても彼女が改善に努力するとは思えない。つまり言うだけ無駄だ。
「いい天気だね」「え?」
見えない僕のこんな台詞を聞いて、史緒は一瞬きょとんとした様だった。
その間の長さで、彼女が僕の視力について未だ、大して理解していないことがわかる。まぁ、理解されるほど、付き合いが深いわけじゃない。
少しして穏やかな笑いが返った。「そうね」
「風が強いけど。……すごい音だ」
ちょうど、また、風が吹いて、史緒は小さな声を立てた。風に足を取られたのか、数歩、立ち位置がずれる。
史緒は風に煽られたことを不快に感じたようで、髪と服を叩いて埃を払った。その風も、僕には心地良いと感じるけれど。
(本当、こういうところで史緒とは気が合わないな)苦笑してしまう。
「…まさか七瀬くんも来てくれるとは思わなかった」と史緒が言った。
A.Co.まで僕が付いて来たことだ。
「どうして?」
「七瀬くんとは…そんなに仲良くなかったし」
「僕も史緒と仲良くした記憶はないけど」
「…」
不自然な間があった。頭の中を、史緒との思い出がいくつか通り過ぎる。多分、史緒も同じように思い返したに違いない。次に僕らは同時に笑い出した。史緒も、小さく笑っていた。
仲が良いなんて、本当にとんでもない。
恐らく、僕らはお互いが、一緒にいたくない人間ベスト3に入る。
理由は同じ。相手が、一番嫌な時代の自分を知っているからだ。
僕は香港へ行く前の時間。史緒は篤志に会う前の閉じ篭もっていた時間。
できれば忘れたい過去の自分を知られているのは気まずい。さらにあの頃から変化した自分を見られるのは気恥ずかしい。だから本当なら、史緒とはあまり一緒にいたくない。
「…あのさ、史緒」「なに?」
「名字で呼ぶのやめてくれる?」
両親のことを意識させられるから、とは言えない。
「えっと…じゃあ、何て呼べばいい?」「呼びつけでいいよ」
「…」
史緒は困ったように黙り込んだ。今更、気恥ずかしい気持ちはわかる。
そのとき、またドアが開いた。
篤志だ。
「こら、2人とも。サボるな〜」
「篤志」
「今日中に事務所整えるって言ってただろ」
「ごめん、すぐ行くよ」
「司、アパートの契約書、おじさんから返ってきてたぞ」
「ありがと」
「結局、父さんが保証人になったのね!?」
「怒らないでよ、事実、後見人なんだし」
「だって…」
「史緒、桐生院さんから速達来てた」
「えっ、どこ?」
「山積み段ボールの上。…ともかく、まずは片づけてから! 営業は来週からだろ!」
end
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