キ/GM/31-40/32
≪10/11≫
1996年10月。
約1年の留学期間を経て、史緒が帰国した。
彼女は変わっていた。
一言で表すと、外面の社交性4割増。
1年間も独り、海外生活していたのだから当然かな。その変化はきっと、良い方向だと思う。
櫻は大学に寝泊まりすることが多く、家にはあまり寄りつかなくなっていた。
篤志は久しぶりと思わせない頻度で阿達家に顔を出していて、
僕はまだ不信感を抱きつつも、篤志と連んでいた。
コンコン
部屋のドアが鳴ったので「どうぞ」と声を返す。
少しの間の後、ドアが開かれる音がした。
「七瀬くん? ただいま」
史緒だ。(玄関を開けたときからその足音は捉えていた)見えるわけもないが僕は振り返って応えた。「おかえり」
「ネコ、こっち来てる?」「うん」
ベッドの上に寝転がっていたネコが起き出して、史緒の方へ、トタタタと走った。
ネコを抱き上げて史緒は、篤志にも声をかけた。
「いらっしゃい。相変わらず仲いいのね」
篤志は午後からここに来ていた。午前中は学校で試験だったらしい。(彼は受験生だ)
「そっちはどこ行ってたんだ?」
「図書館」
「そんなに本読んでおもしろい?」
「ためになるわ。それに読書量じゃ篤志には負けるでしょ」
「俺はおもしろいから読んでる」
「…」
「…」
不自然な沈黙を終了させるのは他者の一声しかない。
「2人とも、…無意味だと思わない?」物事の本質を議論する内容にしてはかなり。「低次元だよ」
「おーまーえーはー」
「七瀬くん…」
座っている篤志とドアの前に立つ史緒、同時に苦い声が返った。そのタイミングの良さに思わず笑ってしまった。
「まあまあ。史緒、部屋に篭る前に、お茶でも飲んでいかない?」
そう誘うと、少し悩む時間があって、
「…じゃ、ごちそうになろうかな」
史緒は部屋に入ってきて、篤志の隣にちょこんと座る。
こんな風に接するくらい、史緒は変わっていたし、僕らの関係も変わった。
史緒は篤志と会って色んなモノに目を向けるようになった。和成と離れたことで独立したし、留学したことで社交性が高くなった。他人の変化をここまで鮮やかに見られるのは珍しい例だろう。
帰国後、史緒はほとんど家にいないくらい外出ばかりしている。活動的なのはいいことだけど、今、史緒が落ち着いているように見えるのは櫻が近くにいないせいもあるに違いない。
「何、借りてきたんだ? …他人を言い負かす話術=H」篤志は史緒が借りてきたという本のタイトルを口にした、僕に聞かせるためだ。
「また、ずいぶんとかわいげのないものを…」
篤志にそう表されても史緒はこともなげだ。
「どんなに自分の見解や信条を持っていても、それを言葉にできなければ意味がないでしょう? 例えば裁判だって真実を知っていても的確かつ理論的に喋れない証人は役に立たないわ。…私はそういう状況で冷静でいたいの」
「15歳でそれだけ喋れれば十分だよ」
僕が呆れて見せると、篤志も「裁判で証人になる予定でもあるのか?」と冷やかした。
「そうじゃなくて、…臨機応変の、それぞれの場で有効な喋り方を身につけたいのよ」
史緒は苦笑しながらも強い口調ではっきりと言った。
「史緒ってさー」篤志が言う。「なによ」
「必死っつーか、切羽詰まってるっつーか、焦って知識詰め込んでるって感じだよな」
さらに続ける。
「もっとこう、純粋な知識欲や向学心のために行動できないわけ?」
「それは篤志の価値観でしょ」
と、史緒が一蹴する。「どちらが良いか悪いかを画然させたいなんて、その議論のほうが低レベルと思うけど」
しばらく痛い空気が流れて僕は溜息を吐いた。
(どうもこの2人は…)
似た者同士というか。いや、単に2人とも頑固なだけだ。
特に史緒は社交性と同時にある種のプライドが芽生えたような気がする。何故か篤志も史緒に関しては好戦的というか挑戦的というかよく絡むので、2人の間にいる僕は頭が痛い。
「史緒って何がしたいの?」と尋ねた。
「え?」
篤志の肩を持つわけじゃないけど史緒を困らせてみたいのと本心を聞いてみたかったから。
「さっき言ってた“的確な話術を身につける”が最終目的だとしたら笑っちゃうけど」
本を読み多くの知識を取り入れるのも、焦るように勉強するのも、何の目的もない人間が容易にできることじゃない。喋り云々だって、途中経過に過ぎないことだろうし。その先に、何か目指すものがあるはずだ。
「将来の夢ってことか? 是非聞かせてもらいたいけど」
「…っ」
篤志にまで耳を傾けられ史緒は言葉に詰まった。
「2人に言う義務は無いでしょ」
そう言って史緒は立ち上がる。声がうわずっているのは気を悪くしたのではなく照れ隠しだ。
「七瀬くん、ごちそうさま」
史緒はそう言い残して部屋を出て行った。これから読書の為に自室に篭もるのだろう。
≪10/11≫
キ/GM/31-40/32