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 茹だる蒸し暑さはもう少し先のことで、雨が降ったり止んだり、けれどその空に確実に夏の青さが見え隠れするような7月中旬のことだった。
 A.Co.の事務所ではいつものように阿達史緒が机に向かいデスクワークをしていた。彼女の最近の悩みといえば、メンバーの学生組が夏休みに入ったらしく朝から晩まで事務所に入り浸っていることだ。彼らと顔を合わせることが嫌なのではなく、人が多いと集中することができず、史緒は自分の仕事効率が下がっていることを自覚していた。関谷篤志が言うには、それは「修行不足だ」という。
 事務所の電話が鳴った。
 篤志が取ろうとしたが、史緒はそれを遮った。発信者が仕事とはあまり関係の無い峰倉薬業だったからだ。
「はい、阿達です」
 峰倉薬業の社長、峰倉徳丸とは気の知れた仲。史緒は社名を省略して名乗る。
「あー、俺だけど」
「どうも。どうかしました?」
 いつもなら「俺さんという方は存じ上げませんけど?」と応えるところだが、史緒は峰倉の声にいつもと違う真剣みを感じた。
「島田、来てないんだけど」
 想像もしなかった台詞に史緒は虚を突かれた。
 事務所のメンバーの一人、島田三佳は峰倉薬業のアルバイトを兼業している。
 史緒は眉をひそめて左手首の時計に目をやる。時間は10時半を少し過ぎていた。
「三佳はいつも通り家を出ましたけど…」
「そうなのか? ケータイに掛けても繋がらないし、そっちの仕事で急な案件でも起きたのかと思って。でも連絡よこさねぇヤツじゃねーぞ」
「ですよね…、こちらで捜してみます。連絡ありがとうございました」
「俺もちょっと近場を当たってみるよ」
「あ、いえ。峰倉さんの手を煩わせたりしたら私が三佳に怒られます。…ええ、じゃあ」
 挨拶を簡単に済ませて史緒は首を傾げながら電話を切った。
 電話のやりとりを聞いていた篤志は訝しげに問う。
「どうした?」
「峰倉さん、三佳がまだ来てないって」
「は? 8時には出たろう?」
「ええ。だから、おかしいなって」
 もう2時間半も経過している。普通なら1時間もかからない場所だ。事情があって寄り道しているなら、峰倉の言う通り連絡を怠る三佳ではない。
 ガチャリ、と事務所のドアが鳴った。
「おはよう」と、短く挨拶して入ってきたのは七瀬司、事務所メンバーの一人だ。
 盲人用の白い杖を入り口の所にかけると、危なげなく歩を進める。
 普段から三佳と行動することが多い彼なら何か知ってるかと思い、史緒は聞いた。
「司。三佳の今日の予定、何か聞いてる?」
「三佳? 今日はバイトだろ」
「そうよね…」
「なにかあったの?」
「峰倉さんから連絡があって、三佳がまだ来てないって。───…電話してみるわ」
 史緒は倒れ込むように椅子に座り直してから、机の上の電話に手を伸ばした。短縮番号は03だ。電源が切られていたり圏外では無いらしくすぐに繋がった。
 篤志と司がその様子を見守る中、史緒は受話器から5回目の呼出音を聴く。確か三佳はコール10回で留守電転送していたはずだ。
(まさか本当に何か…)
 あったのだろうか。
 史緒が不安を感じ始めたとき、9回目のコールでそれは途切れた。
「三佳?」
 安心するとともに名前を呼ぶ。
 しかし、返る声はなかった。
「もしもし?」
「…阿達のお嬢さんかい?」
 男の声だった。
「…っ」
 史緒は一瞬で有事を察し、その聞き覚えのある声、その人物を知ると愕然とした。
 この声は蔵波周平だ。
「なんであなたが───」
 史緒が声を荒げると即座に篤志が反応して腰を浮かせた。司はソファから動かなかった。

「やーぁ、連絡待ってたよ。こっちからかけようと思っても、この子のケータイ、メモリがロックされててさぁ。さっき峰倉からも掛かってきたけど無視しとけばそっちに回るかと思って」
 軽薄とも取れる声で蔵波はぺらぺらとよく喋った。意味の無い言葉に史緒は苛立ち、冷静さを失っていた。
「三佳は!? どうしたの?」
「隣にいるよ。心配しなくても何もしてないから」
「どういうつもり? 何の目的があって…」
「俺の要望は前に言ったはずだ」
「…え?」
「七瀬夫妻の息子を連れて来い」
「!」
「お嬢さんと一緒にいると噂で聞いてる。この子も知っているような感じだ。結構身近にいるんじゃないのか?」
「…ッ」
 チラリ、と目をやると司は無表情で足を組んでソファに座っていた。本棚のほうに顔を向けていてこちらを向いてはいなかった。その表情は読めない。
 蔵波は司を「七瀬夫妻の息子」を呼び出して何をする気だろう? つい先日会ったときは「8年前の事故のことを謝りたい」などと言っていた。でも多分、司はそんなこと望んでない。史緒も、できれば会わせたくない。
 まさか8年前の事故の関係者が今頃になってこんな風に現れるとは思わなかった。
 史緒は盛大な溜息を吐く。
「解ってると思いますけど、これは犯罪ですよ」
「お嬢さんが事を大きくしたいなら、そうなるかな。でも、そんな、大げさなものじゃない」
「こっちは大事です!」
「少し落ち着いたら?」
(だめだ)と史緒は怒りさえ覚えた。蔵波には何を言っても通じないような気がする。
「三佳に代わってください」
「いいだろう」
 少しの間と、遠く声のやりとりが聞こえてから、
「…史緒?」
 やっとその声を聴くことができた。間違いなく、島田三佳だ。
「三佳!」
「面目ない」
 むちゃくちゃ不本意そうな声が重々しく響いた。その様子が心配したほどダメージを受けてないようで史緒はほっとする。軽く息を吐いて、背をそらすと椅子をキィと鳴らした。一拍おいて、わざと鷹揚な口調で言った。
「人質だもの。扱いは丁重でしょうね」
「最悪ではないな。良くもないが。───安心してくれ、車に軟禁されている他は不愉快な扱いは無いから」
 その言葉をまるっきり信じることはできない。いくら三佳でも、かなりの精神的ダメージは受けているだろう。彼女の性格から、ここで心配されることのほうが心苦しく感じるに違いない。だからいつも通り健気に振る舞っていることが容易に想像できる。
 だから史緒は余計なことは言わず、ひとつだけ確認した。
「───大丈夫なのね?」
「ああ」
 落ち着いた声が返る。史緒はまた溜息をついた。
「仕事があるから、私は行かないわよ」
「期待してないよ」
「悪いけど、もう少し待ってて」
「了解」
 その後、史緒は居場所を聞いて受話器を置いた。
(なんて言おう…)
「司…」
 史緒が何か言う前に、司はすっとソファから立ち上がった。
「いいよ、僕が行く」
 泰然と言い放つ司。史緒は目を見開いた。
「え、聞こえてたの?」
 そんな素振り見せなかったのに。
 司は史緒を無視して、冷静に出かける支度を始めた。そのまま出て行きそうになる司を篤志は呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待て。俺は事情がわからん、まさか誘拐沙汰なのか?」
「犯人に自覚は無いようだけどね」
 答えたのは史緒だ。
「一体、何が目的なんだよ…───」
「史緒。誰? その男」
 ひとつ、司が尋ねた。
「蔵波周平。8年前の事故当時、一研の主任だった男よ」
「知らない」
「最近、峰倉さんのところに出入りしてるみたい。ついこの間、三佳と一緒にいるときに偶然会ったの。司に謝りたいなんて言ってたけど、あれは責任を感じてる様子じゃなかったわ。…悪い言い方だけど、好奇心よ」
「ふーん」
 読めない表情で短く答えた司。しかしその無表情に史緒は空恐ろしいものを感じて顔を引きつらせた。
「篤志、一緒に行って」
「別に一人で平気だよ」と、司。
「いいから!」
 その気配を察した篤志は頷く。「わかった」
 篤志もバタバタと出かける支度を始める。
「司、くれぐれも…やりすぎないでね」
「え? 何か言った?」
 わざとらしい演技だ。電話の向こうの声を聴き取れる司が史緒の言葉を聞き逃すはずがない。
 司はドアの横に立てかけておいた杖を握ると「いってきます」と声をかけて出て行った。篤志がその後を追った。



 ちょうどその頃、A.Co.メンバーである三高祥子と川口蘭が駅から事務所へ向かっているところだった。
「あ、篤志さん。と、司さん」
 目ざとく思い人を発見した蘭は、今まさにタクシーに乗り込もうとしていた2人を指さした。
 蘭は普段は制服で事務所を訪れているが夏休みに入ったのでノースリーブのトップに膝丈のジーンズパンツの私服姿だった。
「なんだぁ。出かけちゃうのかぁ」
 素直な不満を口にする。
 隣の三高祥子は夏らしい花柄のワンピースを着ていた。
「ほんとだ。あの2人が一緒っていうのも珍し…───」
 何故かそこで祥子は息を止めた。目を大きく開いて、タクシーのドアが閉まるのを見た。
 蘭は祥子の様子には気付かずに、目の前を通り過ぎるタクシーに大きく手を振る。蘭と祥子の姿に気付いた篤志が軽く手を振り返していた。そんな些細なことにも、蘭は心から嬉しそうに喜んだ。
 祥子はタクシーが消えるまで口を開くことができなかった。
「ねぇ、…蘭」「はい?」
「今の…───司だった?」
「え? そうですよぉ。祥子さんも見たでしょ?」
「うん…そうだけど。でも…」
(…あんな司、はじめてだ)
 祥子はさっきの気配を思い出して身震いした。
 篤志のとなりに座っていた司の素振りにとくに変わったところは見られなかった。でも祥子だけは判る。
(何をあんなに、怒ってたんだろう───)

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