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 彼女に怒鳴られたのは後にも先にもあの時しかなくて、
「もういらない、早く出ていって! 顔を見せないで、二度と来ないで!」
 でもその後も普通に顔を合わせているのはある意味幸運なのだと、最近になって自覚した。
 人間の成長過程を見届けるのはとても興味深い。笑顔を見ると、つい自分も微笑んでしまう。それに気づくと咄嗟に口元を隠す、少しの気恥ずかしさ。それが意外と心地良いから。


▲Prologue
 7月の終わり。
 季節は四季のうちどれでもない梅雨。
 上空へ生えるビルの間、空からはかろうじて雨は落ちてきていない。しかし濁った沼色の空と、アスファルトに映らない影が、通りを歩く人間にある予感をさせた。人々はその予感に従い、足を速めたり傘を携帯したりした。
 時間は昼の12時を回った。高層ビルが建ち並ぶオフィス街のとある雑居ビル、その一階のレストランには、いつ落ちてくるか分からない雨をできるだけ避けようと、近隣のビルから集まった会社員で満席になっていた。その中にはアダチの社員証バッヂを胸に付けた人間も多く見られる。
 このレストランの正面のビルは「アダチ」本社だった。
 レストランの一角に、アダチの総帥・阿達政徳の第2秘書である人物がいた。そのことにランチ中のアダチ社員たちは珍しがった。さらにその秘書に同席している女性がいるとなっては噂にならないほうがおかしい。本人たちに気付かれないよう好奇の視線を送る。
 しかし、その同席者が社長令嬢だとは誰一人知る者はなかった。
「この間は、どうもありがとう。蔵波さんについて調べてもらって」
 ランチの後のコーヒーを飲む前に、阿達の一人娘・阿達史緒が目の前の人物に言った。
 彼女はアダチの社員ではない。周囲が制服やスーツを着た社会人ばかりのこの場所でも、18歳という若さの彼女が違和感なく馴染んでいるのはその落ち着いた仕草のせいだろう。
「どういたしまして。あのくらいでしたらいつでも」
 阿達の第2秘書・一条和成。仕事では見せない柔らかい笑顔───を、見せたことに店内のあちこちがどよめいたのだが和成と史緒は気付くことがなかった。
 家を出た史緒は定期的にアダチ本社へ呼びつけられている。そのおかげで家を出る前より父親と顔を合わせる回数が増えた。最悪だ、と史緒は思っている。しかしそれが家を出る条件だったのだから仕方がない。
 そして父親に会うということは一緒にいる一条和成とも会うということだ。昔の自分をよく知っているということもあり、史緒にとってあまり対面したい人物ではなかった。

「その蔵波周平ですが、先週、異動になりました」
「───」
 それを聞いて史緒は右手のカップもそのままに10秒間沈黙した。
 その後、結局カップには口を付けずテーブルに戻し、一瞬眉をひそめた。
「───…、司ね?」
「ご明察」
「一条さんにそんな末端の人事に口出しできる権限があるの?」
「まさか」軽く肩を竦める。「ですから、司さんには社長に直談判していただきました。直接は伺っていませんが、結果を見ればその要望が通ったことは明らかですね」
「…」
(司が蔵波を異動させた?)
 その、本来なら大声を出して驚くべきことを聞かされても、史緒はそれをしない自分を当然のように受け止めていた。
 少し前になるが、その蔵波周平が起こしたちょっとした事件があった。史緒の同居人である島田三佳が蔵波に誘拐された。表面的には冷静を装っていた司だがその内心は推して知るべし、こうなることは分かっていた。
(それにしても)
 どうして司は和成ではなく自分を通さなかったのだろう、(一条さんのほうが頼りになるってこと?)と史緒は少し不満だ。しかしすぐに(…そうか)司の意図は見えた。
 司に頼まれれば史緒は父親への仲介を引き受けるだろうけど、本来なら父親を頼るのは彼女の本意では無い。だから司は阿達政徳への仲介に和成を選んだのだ。
 だからと言って、何も知らせずにいられては史緒だって面白くない。
「それから」和成は続けた。「異動になる直前の3日間、蔵波は入院の為、有休を取ってます」
「!」
 今度は史緒も眼を見開いた。
 日付を問いただすと、三佳の誘拐事件とちょうど繋がった。とすると入院の原因は…。
(やりすぎるなって言ったのに!)
 司と三佳の証言はともかく、篤志の「適度な報復で済んだ」という報告を鵜呑みにしていたのは良くなかったかもしれない。
(それを入院って…)
 下手すればこっちが危うい立場に陥る。どうやって蔵波の口を塞がせたのかは知らないが、やはり司は大人しくはしていなかったということだ。
「……はぁ」
 史緒はうなだれて深々と溜息を吐いた。
「司さん、何かあったんですか?」
「まぁ、…ちょっと」
 司に協力してくれた和成には悪いが、身内の狼藉をむざむざ晒すことは無い。史緒は適当に言葉を濁した。和成はそれ以上追求しなかった。
「僕がアダチに入社したこと、少しは良かったと思ったでしょ?」
 その代わり、唐突に和成はそんなことを訊いた。
「…どういう意味?」
「“嫌いな父親”の会社に僕が入ったこと、昔から怒ってたようだから。…有益な情報を提供したわけですし、少しは感謝してくれてもいいのでは?」
「借りができたわ」
 苦々しく史緒が呟く。
「史緒さんに貸し付けるのはちょっといい気分ですが、丁度、返していただける機会がありますよ───つまり頼みたいことがあるんですが。お願いできますか」
「どうぞ。私にできることなら」
「本当は僕が新居社長から頼まれたんですけど、史緒さんに代わりにお願いしようと思って」
 思いもよらなかった人物の名前が出て史緒は眉をひそめた。
「…新居さん? …え? 連絡取ってるの?」
「時々は」和成は涼しい顔で答える。
「仕事で?」「まさか」
 その答えは予想できていた。
 新居の会社はアダチと直接取引するような企業ではない。確かに、新居の会社は海洋船舶系の技術部門を抱える中小企業で、貿易会社を持つアダチの職種と関連が無くもない。しかしあまりにも規模が違いすぎる。
 もしかしたら下請けの下請け、つまり孫会社レベルでの繋がりはあるかもしれない。けれどそもそも父親が新居の会社を使うとは史緒は考えられなかった。
(父さんも新居さんも、公私混合を嫌がる質だし)
「史緒さんと新居社長の関係を三高さんに説明してください」
 ぱちり、と史緒は眼を見開いた。
「───…祥子?」
「ええ」
「…ちょっと待って、どういうこと?」
「3月に三高さんが辞めるかどうかで揉めたことあったでしょう? その時に新居社長が後で教えると約束したそうですよ。新居社長と史緒さんの関係を」
「…っ、そういえば! 一条さん、祥子に何か言ったの?」
「あれ、三高さんから何か聞きました?」
「か…、───」
 勢いでそのまま答えそうになるが、史緒は思いとどまった。興味津々な和成から顔を逸らす。その逸らした顔は少しばかり赤くなっていた。
 和成の言う通り前の3月、三高祥子と一揉めあり、それが一段落したときに、
「かずくんがよろしく、だって」
 祥子はそう言って笑った。史緒は驚いて言葉を失った。
 かずくん、というのは一条和成のことだ。それは分かる。彼がよろしくと言ったというのなら、祥子は史緒の知らない所で和成に会ったのだろう。でも史緒はそれに驚いたわけじゃない。
 問題は祥子がどうやってその呼称を知ったかということだ。
(“和くん”って…)
 思い返すと赤面してしまう。史緒はかつて和成のことをそう呼んでいた。それを知っているのは仲間内では七瀬司だけ。けれど、司はめったなことでは昔の話を口にしない。
 ということは、和成が祥子に喋ったとしか考えられなかった。
「大したことは話してませんよ」
「…信じていいんでしょうね」
「それに対する僕の答えを、史緒さんが信じられるなら」
 睨みつけてくる史緒に和成は笑顔で答えた。
「詭弁…というより、それじゃあ責任転嫁よ」
「それなら…」
 ぷるるるる。ぷるるるる。
 和成の携帯電話が鳴り、和成の台詞は中断された。
 胸ポケットから携帯電話を取り出すと、液晶の表示をちらりと確認する。急に真顔に戻ったので、それが仕事関連の電話だと史緒は察した。
「ちょっと失礼」和成は椅子から立ち上がる。
「ごゆっくり」
 店内での会話はマナー違反。それ以前に、仕事関連の電話をこんな場所で受けられるはずない。和成は史緒を置いて店の入り口のほうへ向かった。
 一人残された史緒はその後ろ姿を見送って、「ふぅ」と息を吐く。
(こんなにくだけて一条さんと喋ったのは久しぶりかも)
 ───“嫌いな父親”の会社に僕が入ったこと、昔から怒ってたようだから
(…確かに)
 昔、和成と喧嘩別れした経緯にはそんな理由もあったと史緒は思う。
(裏切られたような気がしたのよね)
 和成が離れていくことが。
(…子供だったなぁ)
 赤面して少しの笑いを漏らしてしまうような過去だ。
 そんな風に昔のイタい過去を山ほど知る和成と対面するのはできれば避けたい。でも。
(たまにはいいかな)
 窓の外を見ると相変わらずの曇り空。降り始める前に帰りたかったけど、どうやっても無理なように感じられる雨の気配。湿度の高い電車に揺られる覚悟はしなければならないだろう。
「あの、ちょっとごめんなさい」
 頭上から高い声がかかった。
「はい?」
 史緒が反射的に振り返ると、そこにはアダチの社員証をつけた女性が不安そうな面持ちで立っていた

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