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 ───男は逃げながら思う。
 この街はこんなに静かだったろうか。
 この街はこんなに暗かっただろうか。
 この街はこんなに寒かっただろうか。
 どうして今、自分の足はこんなにも遅いのだろう。
 どうして今、自分の肺はこんなにも辛いのだろう。
 どうして今、奴は追いかけて来るのだろう。
 奴が他人を追う理由はひとつしかない。───だから逃げるのだ。
 季節は夏だというのに寒くて仕方ない。額から背中から汗が止めどなく溢れてくるのに。
 寒くて堪らなかった。

 夜も更けた街の片隅、アスファルトを叩く足音はふたつ。
 コンクリートの壁に挟まれた裏の路地には、ビルのテナントから出されたゴミが積まれていた。それは夏の夜風に当たり生臭い匂いを放出している。ビルには飲み屋が集まっているのだろう、吐瀉物がそこかしこに落ちていた。アルコール臭が立ちこめていた。物陰に潜む獣が目を光らせていた。
 壁一枚向こう側からは賑やかな音楽と談笑が聞こえる。薄く光りが漏れ、路地裏に僅かな灯りを差した。
 しかしそれらは男に何ら救いを与えはしない。
 男は必死で逃げ惑うあまり、袋小路に陥っている過ちに気付かなかった。腰砕けの状態で走り続けた足は限界を訴え、男はゴミの山に凭れるように倒れ込んだ。するとすべての疲労が胸に集中した。暴走する肺を堪え声を出せるようになるまでには時間が必要だった。
 その間に、軽い足音がすぐそこで止まる。
 同じ距離を同じ速度で走ってきたはずなのに呼吸も乱してない。大通りの灯りを背に、細い影が浮かび上がる。男はその存在を知っていた。しかし目にしたのは初めてのことだ。
「……ッ、何故だ」
 男は言う。「何故、俺を…」
「───あたしの事を知っている人間が」影が口を開く。
「あたしに追われる理由がまったく無いはず無い…、とは思いません?」
 場違いなほど穏やかな笑みを浮かべて首を傾げる。男の背筋に寒気が駆け抜けた。
「誰だッ!? 誰が、俺を」
 心当たりが無かったわけではない。ざっと5人の顔が浮かぶ。それ以上は思い出すことができない。案の定、影はそのうちのひとりの名前を口にした。
「…それでは」
「やめろッ! …金ならいくらでもやる…だから、───助けてくれ!」
 くす、と影は笑う。
「そんな言葉ではあたしを止められません。…あなたも、そうだったんでしょう?」
「…やめ」
 影は右腕を頭の高さまで上げた。細い音がして、その指先で何かが光った。
 それが何なのか、男は知ることができなかった。

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