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 駅前のタクシー乗り場には数人の列ができていたが5分としないうちにそれは捌けた。地理的に、史緒を途中で降ろして藤子は恋人の家へ向かうことになる。2人はタクシーに乗り込んだ。
「───模型風景(ジオラマ)、ってあたしは呼んでるんだけど」
 と、話題を切り出したのは藤子だ。タクシーは賑やかな街を抜け出して暗い夜道を走っていた。
「…なに?」
「自分の生き様を象徴するような風景を思い浮かべることって無い? 実生活で問題が起きてるときはその風景の中でも躓いていて、実生活で快調なときは調子が良いの」
 史緒は眉を顰めて少しの間考え込んだ。
「…よく、解らないんだけど」
「まぁ感覚的なことだからね。晴ちゃんも解んないって言ってたし」
「具体的にどんな感じ?」
「空飛んでたり、川を泳いでたりしてるって言った人もいたけど」
「───益々、解らないわ」
「あたしはね、すごく広い場所に立ってる」
 藤子はそのまま両目を閉じる。
「…幅の広い、平坦な道がずっと続いているの。地平線どころか消失点まで見えるくらい、長く続く道。あたしはそこをずっと歩いてる。天気は暑くも寒くもない、空に雲は無いけど、どこか乾いた色。───振り返るとそこにも道が続いていて、険しかったり綺麗な景色だったりする。でも戻ることはできないの。ただ「あたしはここを歩いてきた」って過去を想うだけ。戻れないから、仕方なく前に進む。───実生活でダウナーなとき、あたしはその道で立ち止まってる。座ったり、寝ころんだりしてる。アッパーなときはね、暖かい風が吹くの。風が吹くと、「ああ、行かなきゃ」って思う。そうしてあたしは、歩き始める。───風を吹かせるのは、好きな人達の言葉だったり、偶然耳にする音楽だったり、街中の景色だったり様々。誰にも出会わない、でも淋しいとは思わない。そこはあたしだけの世界で、あたししかいないのは当然だから。…そういう風景が、あたしの中にずっとあって、あたしはそうやって生きてるの」
 パチッと目を開けると、藤子は話に聞き入っていた史緒に笑ってみせる。
「晴ちゃんや史緒は、あたしに風をくれる。…だからあたしは、模型風景の中で歩いていけるんだよ」
「…」
 史緒は藤子の唐突な話題に聞き入りしばらく反応を返さずにいた。しかしはっと我に返り、ぎこちなく視線を逸らす。
「照れた?」
「…ちょっとね」
 と、不本意そうに苦笑した。
「史緒の風景はどんなのかなって訊こうとしたんだけど」
「その感覚、さっぱり解らない」
「じゃあ、史緒の過去は別の手段で誘導尋問するしかないかぁ」
「なにそれ」
「史緒は振り返ったとき、過去の自分が見えるタイプだよね」
 史緒はハッと息を飲んだ。どうやら図星らしい。
「…藤子は? 違うの?」
「あたしは歩いてきた道しか見えない。現在にしか、自分はいない」

 タクシーが史緒の自宅前に着いて停止した。
 史緒の家は都心部だがさすがにこの時間、辺りは暗い。自然と声を抑えて2人は言葉を交わした。
「じゃあね」
「うん、また遊んで」
「おやすみ」
 薄暗闇で手を振る史緒に藤子も笑って手を振る。ちらりと史緒の背後に目をやった。
「後ろの彼にもよろしく」
「え…?」
 史緒の背後には、腕組みをしてしかめっ面した背の高い男が立っていた。
 藤子はそれが史緒の仕事仲間であることを知っていた。
「…っ」
 背後の気配に気付いてぎこちなく振り返った史緒は青くなった。「篤志…」
 少しの間、無言の対峙があったがどちらに分があるかは明白。それに付き合ってやる時間も義理も無いので、藤子は男に、にこやかに指先で敬礼して見せた。
「夜分も遅いので失礼、挨拶はまた後日に」
「藤子…っ」
 情けない顔で史緒が振り返る。
 言外に助けを求められても困る。夜遊びを隠し切れなかったのは史緒の詰めが甘いのだ。
「じゃ〜ね〜、史緒」
 と、人差し指でキスを投げると、藤子は出してくださいと運転手に告げた。
 タクシーが動き始めたとき、遠く、強い声と史緒の情けない悲鳴を聞いた気がした。そんなものは全く気にせず、藤子はバッグの中から携帯電話を取りだした。
 藤子は携帯電話のメモリ機能を一切使わない。着信履歴も発信履歴も残さない。この電話を使用していた人間像が割れるのは契約書に記された名前と偽りの住所、それから指紋と、ストラップ代わりのブレスレットのみ。藤子の人間関係もこの電話から漏れることはない。
 藤子は瞬きより少し長い間目を瞑り、瞠る。右手の親指でトタタタタと11桁の番号を叩いた。リングバックトーンを数秒聞いて、途切れると相手の声を待たずに言った。
「藤子だよ〜、これから突撃しまっす。何か買ってく?」
 いらない、と短く答えが返る。「じゃ、待っててね。先に寝ちゃやだよ?」
 パチンと藤子は電話を閉じ、窓の外を眺める。
 恋人のもとへ向かう。抱き合い、感動するために。


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