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▲1.利己的な復讐

 ゴオォォオオ──────

 風の強い日だった。
 厳寒の風はその崖を滑り落ち、厳しく海面を叩いた。波が高く持ち上がり、それに打たれた岩が砕けそうな痛々しい音をたてる。
 風が海をより一層荒くしていた。
 海が風をより一層冷たくしていた。
 枝をもがれそうになった木々が悲鳴をあげた。
 空を支え切れなくなった灰雲が轟く。
 潮風さえ海と仲違え、荒れ狂う波とは違う別の軌道を描き、それが大気をより不安定にさせた。
 そこではすべてが苦しみの声をあげていた。
 その場には一人しかいないのに、他には誰もいない───いなくなった───のに、絶叫が空間を占めていた。
 濁汚した空。
 どす黒い水平線。
 雲はごうごうと流れていくのに、ついぞ太陽が現れることはなかった。
 この時間、この地域特有の陸風は、崖の上、海に向かい立つ少女の髪を掻き上げ、その顔を隠した。
 爪先20センチ先の大地の途切れ目に臆することなく、少女は背筋を伸ばし立つ。
 数十メートル下に広がる荒れ狂う海を見ていた。
 吸い込まれそうな海を、黒い瞳は睨みつけていた。
 風の強い日だった。





「史緒っ!!」
 背後から腕が伸びてきて体を抱えられた。「…ぇ」
 その力強さで現実に引き戻される。視界が急に拓けた。
(───…ぁ)
 そこではじめて、阿達史緒は爪先の崖に恐怖し青くなった。
 気が緩んだとたんバランスを失い、必死でその腕にしがみ付く。
「…ッ」
 風は陸から吹いていた。
 史緒は地面に座り込むことで風をやり過ごし、そのまま草の上を這いつくばって崖から離れた。大きな手が支えてくれていたけど、うまく動かない手足のせいで信じられないくらい手間取った。ようやく5メートル移動できたとき、史緒は鳴り止まない胸を掴み、安全な所に退避できたことに安堵した。
 すぐ近くで息を吸う音。
「こんな場所で何やってんだ!」
 その腕の当人は史緒を厳しく叱り付けた。その表情には心配より、怒りのほうが色濃く表れていた。
「…あつし」
 史緒は呆然としていた。叱られたことは気に止めてない。それより何故、関谷篤志がここにいるのかという疑問を抱いた。
 突然、篤志ははっと思い立ち、背後の林に向かって叫ぶ。
「それ以上来るなっ! 風が強い」
 その声さえ、風は掻き消してしまいそうだったが、きっと届いただろう。
 史緒はここからは見えない木々の中に、七瀬司がいることを理解した。
「…どうして」
 消えそうな声で、史緒は呟いた。篤志は視線を戻し、今度は安心させるように笑いかけた。
「二人がいないから探しに来たんだよ」
 共に行動するはずのない二人が、同時にいなくなったのだ。篤志と司がおかしく思うのも無理はない。
 史緒は言葉を発せずにいた。篤志が来る前に何が起こったのかを思い出す。
 どくん、と心臓が鳴った。
「櫻は? 一緒じゃなかったのか?」
「───…」
 史緒は目が潤み、視界がぼやけるのを見た。
 それは頬を伝い、史緒の輪郭を象ってから、地面に落ちた。
「史緒…?」
 篤志が眉をひそめて覗き込んでくる。
 噛んだ歯が、ギリッと音をたてた。
「…、…っ」
 舌がうまく動かない。それでも史緒は何かを呟いた。
「───…なんだって?」
 声にはならなかったはずなのに篤志は非常性を察して顔を強ばらせた。
「おい! ちゃんと説明しろ!」
 声も無く涙を流し続ける史緒を叱咤する。
「───…さくら」
 息だけで答えた。
「おちた」




 気が付くと別の手が史緒の手首を捕まえていた。七瀬司だ。それが思いのほか強い力で、その手ひとつで自分は繋ぎ止められているかと思うと急に情けなくなって、史緒は手を振り払おうとした。けれども簡単には手は離れなかった。苛立って史緒は司の胸に頭突きをした。その胸は温かい。また泣けてしまった。
(…櫻)
 丘の上で振り返る櫻。嗤い、その唇が動く。
(───…さっき)
 唇が。
「なんて言ったの…? さくら」
 信じられないようなこと。馬鹿みたいなこと。すべてを揺るがすこと。
 息が詰まった。きっと嘘じゃない。でも信じない。───捕らわれてしまう。
 吸いかけの煙草が宙を舞った。目を見開き顔を歪ませたのが最後。
 櫻は堕ちた。
 ───さくら、と叫んだ。
 史緒は手を伸ばしていた。
 それは彼を助けるためのものだったのか、それとも。
 長年の願いを叶えるためだったのか。
「史緒?」
 すぐ隣から呼びかける声がある。何故だか、笑いが込み上げた。
「私、櫻を殺しちゃった」



 今日、私はいくつかのことを忘れるだろう。

 きっと、今、忘れた。

 昔、桜の下で見た櫻の罪も。無力だった自分も。
 今、櫻が言い遺したことも。

 すべて。

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