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▲2.アダチ
日本の大手総合商社であるADACHIといえば、日本人であれば誰もが耳にしたことがあるだろう。電機、貿易、銀行など、国内にとどまらず国際的にも活躍しているグループである。
科学技術の分野では独自の研究所を持ち、セカンドソースだけでなく自社製品も精力的に開発を進めていた。一方、OEMの需要側企業でもあり、幅広い分野に対応している。
何より驚くべきことは、これだけの大企業が一代で築かれたものだということだ。
アダチは、戦後の混乱期に発足され、高度成長期にのし上がってきた会社なのである。
グループ総帥、会長であり、アダチ本社の社長である阿達政徳は、世界の経済界でも有名な人物だった。それなりに高齢だがこのまま健勝であるならあと15年は現役を務めるだろう。
そんな氏だからこそ、彼の子供達のことも一部で噂が広まっている。
噂というものは尾ヒレが付いたり抉(えぐ)れたりしているのが常であり、正確性を保ち続けたまま広まるのは難しいとされる。彼の子供達の噂も例外ではなく、かなり根本的な部分での食い違いがあった。
阿達政徳の子供は3人いるという説と、2人いるという説である。
後者を有力とする見方が多いのは、2人分の人物像がはっきりしているからだ。
ひとりは長男の阿達櫻。彼は幼い頃からアダチのパーティや公式行事に顔を出していて、役員や関連企業の重役にも顔が知れていた。社交性が高く、人当たりも良い。話してみればその聡明さが見て取れたし、父親の仕事を観察する熱心さもあり、跡取りとしては申し分なしと周囲を安心させていた。
もうひとりは櫻の妹、阿達史緒。こちらは櫻と違い、一切、姿を現さないので噂だけが横行していた。最も口汚い噂では「あの子は狂ってる」とまで言われている。部屋に閉じ篭もり一日中出てこないのだという。当然、学校へも行かず、外出さえしない。家を訪れたことがある人間が言うには、悲鳴と、物が壊れる音を聞いたらしい。
阿達は2人の子供について多くを語らない。
一条和成が現場に到着したとき、すでに夕方の6時を回っていた。
激しい雨が降っていた。暗雲が立ちこめ強風が雨を横殴りにさせている。和成は林の隅に車を停止させワイパーを止めヘッドライトを落とした。
(櫻…)
傘も差さず車から降り、和成も何度か訪れたことがある阿達の別荘へ目を向けた。
今日、別荘には家政婦の真木と、櫻と史緒、篤志と司の5人しか来ていない。そのはずなのに建物の周辺は騒然としていた。和成が車を建物のすぐ近くに付けなかったのは、パトカー3台が駐車場を埋めていたからだ。そして警察とその関係者と思われる人間が十数人、別荘の中と外を行ったり来たりしている。庭には照明が灯され簡易用のテントが張られていた。
「あなたは?」
すぐ近くの警官に呼び止められ、「身内の者です」と和成は答える。
「うちの人間はどこに?」
「家の中にいます、どうぞ」
2時間前に連絡を受けたとき、和成はアダチ本社での会議中だった。連絡は関谷篤志からのもので、訝りながらもそれに応じると、その内容の非常性に和成は大声をあげてしまった。躊躇無く会議室へ戻り、阿達政徳に耳打ちすると、阿達は15秒黙した後、和成にすぐ現場へ向かうよう指示した。
別荘の近場には適当なヘリポートが無かった。それを踏まえ経路と天候を考えると、ヘリを飛ばす手続きの時間も惜しい。結局、和成は単身、車で乗り付けたのだった。
───櫻が崖から落ちた
開口一番、関谷篤志は言った。慌ても叫びもしていなかった。ただ明らかな焦燥が伝わった。
そのときの和成に篤志の本心を探る余裕は無い。怪我は? そう聞いたと思う。海に落ちた、まだ見つかってない、と篤志は声を絞り出す。それはとても悲痛な声だった。
和成が別荘の中へ入ると、真っ先に真木が駆け寄ってきた。
「申し訳ありません、私が付いていながら」
彼女の狼狽ぶりは想像以上だった。今回ここに来ている中で唯一の監督者である。子供たちの行動に気を配り責任を取らなければならない立場だ。
「マキさん、落ち着いて。…櫻はまだ見つかってない?」
「はい。地元の救助隊と警察が捜索を初めて2時間経ちます。陽も落ちてしまいましたし、天候も悪いからって、今日の捜索は打ち切ると」
和成は息を飲んだ。今日見つからなければ、生存率がぐっと下がることくらい、素人でも想像できる。生存率、という言葉に寒気がした。日常生活でそんな言葉を使いたくはない。
「史緒は?」
「奥に、司さんと一緒です」
ふと、和成は踏み出しかけていた足を止めた。
「…篤志くんは?」
「救助隊の方と一緒に海に出ています」
「───」
それは意外な気がした。篤志なら史緒についてると思ったのに。
通された部屋に、史緒と司はいた。2人はソファに座り、肩から毛布を被っている。史緒の隣には婦警が付き添っていた。
「史緒、司」
近づくと、雨に当てられたのか髪が濡れているのが見て取れた。司は和成の声を聞いて、安堵の表情を向ける。一方、史緒は呼びかけに気付かず、ネコを胸にきつく抱いてじっと俯いていた。
「…史緒」
目の前に膝をついてそっと声をかけると、やっと史緒は微かに顎をあげて視線を泳がせた。
「───…和くん?」
そう呼ばれたのは久しぶりだった。和成がアダチに入社してからは一条さんと呼ばれていたので。
「司も、大丈夫か?」
「僕は平気。それより史緒が」
「史緒?」
もう一度、視線を戻すと、
「…お父さんは?」
史緒は目を逸らしたまま低い声で訊いてきた。父親が恋しいのだろうか。それは考えにくいことだが。
「今日は来れないと思う」
「…こんなときにも仕事?」
史緒は小さく嗤う。片手で顔を覆い、肩を小刻みに揺らして声を噛み殺している。
「史緒? 一体、何が…───」
「私が突き落としたの」
それは小さい声だったけれど。
「私が、櫻を殺したの」
史緒ははっきりと口にした。
* * *
地元の救助隊と海上保安庁による捜索は1週間続いたが、阿達櫻を見つけることはできなかった。捜索が打ち切られようとした頃、阿達政徳により別の民間部隊が投入されたが芳しい成果を上げることはできなかった。事故から2週間、阿達櫻の生存は絶望的とされた。
一方、阿達史緒の自白(というより主張と見なされた)により、一応、警察による取り調べが行われた。しかし証拠や目撃者があるわけでなし、なにより阿達史緒は15歳の子供だったので、実兄の転落事故を目の当たりにしたショックによる記憶の混乱、もしくは自虐妄想とされる見方がほとんどだった。
「ちがう…ッ! 私が櫻を殺したのッ! 捕まえてよ、私を!」
と、錯乱したように声を荒げる。
「史緒、やめろ」
「お父さん、口止めしたでしょう…?」
図星だった。
「外聞を気にして都合の悪いことは隠すの? 汚い…! これじゃあ、七瀬くんのときと同じじゃない…!」
語尾は掠れていたけど、父親への嫌悪感が明らかに表れていた。
結局、阿達政徳は櫻を「失踪」扱いにした。遺体が揚がっていないので死亡届けは出せない。
例外として、死体が無くても死亡とさせる「認定死亡」という制度が戸籍法第89条に規定されている。しかしこれを適用させるには死亡が確実でなければならず、今回の場合は認められなかった。
一方、「失踪人」を法的に死亡させるには、民法第30条に準じて「失踪宣告」を家庭裁判所に申し立てればよい。(誤解の無いよう説明すると、これらの制度は残された遺族の権利を守るためにある)
しかし、失踪宣告を出せるのは7年後である。それだけ経たなければ、櫻を死亡したとみなすことはできない。
それだけ待たなければ、櫻の存在を消すことはできないのだ。
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