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▲3.情報の館

 雨の日に拾ってきたネコは手のひらに乗るくらい小さかった。あれから7年。今では膝の腕でのっしりと丸くなっている。史緒はベッドの上に座ったまま、その柔らかな背を撫で、抱き寄せた。確かな体温を感じた。
 冷え冷えとした部屋の中は物音ひとつしない。
 史緒は意味も無く天井を仰ぐ。
(……)
 奇妙な空虚感があった。まるで体の中身をごっそり持っていかれたようだ。今まで、体の中で常に蠢いていた不安や焦燥はきれいに消え失せている。そっと胸に手を当てると、詰まりものが無い穏やかさがそこにあった。
 冬の暖かな日差しが窓から差し込んでくる。
 空気が清々しい。
 遠い、車の音。
 小鳥のさえずり。
(櫻はもういない)
(いつも感じていた気配はない)
(もう、いない)
 この家の中で、初めて穏やかな空気を感じている。
 長く、この暗い部屋を出られなかった過去の自分がいる。しかしそれは既に過去の自分だ。
 すぐそこ、部屋の隅に、過去の自分のビジョンを史緒は見た。
(もう同じじゃない)
 かつての自分はそこにいた。蹲って怯える、そのビジョンそのものだった。でも。
(もう一緒にいられない)
 ───もう離れてしまった。そこには戻らない。
 もう、ひとり部屋の中で怯える理由は無い。
 ───櫻に怯えていた理由はあの日に忘れた。
 夢に魘されることもない。
 もうこの部屋に閉じ篭もる必要は無い。動き出さなきゃいけない。
 そう、決意めいたことを考え、ふと史緒は苦笑した。
(ひと一人殺したというのに、この前向きさはなんだろう)
 自分がとても人でなしに思えてくる。
(でも後悔は無い)
 他人の罪を忘却できないのは辛い。今はもう忘れたから、辛くはない。
 この罪、この罪悪感と引き替えに、櫻の罪を忘れた。
(…あぁ、そうか)
 空(くう)を見つめ、無感動にその思いつきを受け止める。
 櫻の罪を忘れるために、自ら罪を犯したのかもしれない。
 それは本当に利己的な復讐だった。



「七瀬くん」
 隣の部屋に声をかけると、司はちょうど電話中だった。廊下のキャビネットに常設されている子機を部屋に持ち込んで気安そうに話していた。
「…ぁっと、ごめんなさい」
 史緒が回れ右すると、
「いいよ、もう終わる」
 と、司が声をかけた。その言葉通り、司は簡単な挨拶の後、通話を終わらせた。
「なに? どうしたの」
「うん、ちょっと出かけてくる」
「わかった。あ、何時頃、帰る?」
「夕方には戻るけど。…なに?」
「夜、篤志が来るって」
「───篤志が?」
 史緒は眉を顰めた。その意図を察したように司は苦笑する。
 関谷篤志は別荘での事件以来、阿達家に来ていない。以前は週2回は訪れていたのに、ここふた月は顔も見ていなかった。
 篤志が櫻を気に掛けていたことは史緒も知っている。気後れや頓着せず櫻に話しかけていたのは篤志だけだ。煙たがれてもしつこいほど櫻に構っていたのは、少なからず好意があったからだろう。
 櫻を殺したと言う史緒を篤志はどう思っただろう。
(軽蔑されたわけじゃなかったのかな)
 2ヶ月も訪れないのは、もう見放されたからだと思っていた。
(もしかしたら今日は絶交状を叩きつけに来るのかも)
 それはそれでいい。史緒はそう思っている自分を嗤った。
 ───その嗤いが癇に触ったのか、司は僅かに目元を歪ませる。
「あのね」
 と、苛立たしげに一言吐いた。
「なに?」
 司の変化に気付かないまま、史緒は促した。司は続ける。
「もちろん、僕は櫻が死んで喜んでるわけじゃない。…まだ実感は湧かないけど、やっぱり悲しいんだと思う」
 ぴくり、と史緒の肩が動く。けれどそれは司には見えないことだ。
「史緒を厭う気持ちは無い。───でも、櫻を殺したと口にして安心してる史緒の態度は見苦しいよ」
 司は史緒の反応を待たずに部屋の中に戻った。ぱたんと史緒の目の前で静かにドアが閉まる。
 突然のことに史緒は呆然とする。
 3秒、史緒の息は止まっていた。
 やっと息を吸ったついでに小さく呟く。
「…どういう意味?」
 詰るわけではなく、本当に司の言葉の意味が解らなかったのだ。
 責められたのだろうか? けど、一体、何を?
 櫻を殺したこと? でもそれについては厭わないと言った。
(何に怒ったの?)
 史緒は本当に解らなかった。
 判ったのは、司を怒らせてしまったということだけだろう。
 でももう少しだけ我慢して欲しい。史緒はもうすぐ、この家を離れるのだから。


*  *  *


 その都立図書館は史緒が篤志に教えてもらった場所だった。史緒が留学するより前、篤志が阿達家に出入りし始めた頃、篤志は部屋に篭もっている史緒をよく強引に外へ連れ回していたことがある。その頃、よく連れてきてもらっていた。
 エントランスの重いガラス扉を開くと、史緒は勝手知ったる様子で奥へ進んでいく。ここは平日の昼間は来館者が少なく、落ち着いてゆっくり本を読むことができる。史緒はそれを狙って、よく利用していた。
 そしてもう一枚、ドアを開けるとそこから空気が変わる。図書館とはそういう場所だ。
 天井はあまり高くない。本棚に囲まれ息苦しく感じるけれど、天井に直列に続く蛍光燈が、空間の広さを連想させる。外は晴れているけれど照明が灯っているのは、本棚の高さが窓からの光を遮るからだ。
 図書館では静かに。いつ教えられたのか、幼い頃から身についている教訓だ。けどここで今、囁き声一つないのは誰もがその教訓を守っているから、ではない。答えは簡単で、人がいないのだ。単に。
 新聞を読んでいる老人と、学生らしき人影が数人。
 聳え立つ本棚と足音さえ許さない深い沈黙と、古い本の匂い。
 ずらりと本棚が並ぶ一画、窓際の歴史書のコーナーに細い人影があった。
 左手に抱えた本を、棚に返している。立ち振る舞いと胸元の名札から司書であることがわかる。史緒は迷うことなくまっすぐその人物に近づいた。
「阿達さんかな?」
 背後の気配に感づいたのか、振り返らずに本棚の前の女性は言った。
 淡い色のシャツと、フレアのロングスカート、長い髪を背中で編んでいた。
 この図書館の司書で、谷口葉子という。
「こんにちは、谷口さん」
「2ヶ月も来なかったから、どうしたのかと思った」
 ひとつに束ねた三つ編を揺らし振り返る。眼鏡の奥の瞳が細く歪む。おそらく微笑んだのだろう。それに対し史緒はぶっきらぼうに答えた。
「…どうせ知ってるんでしょう、何があったのか」
「もちろん。次の日には入ってきた」
「売れたの?」
「ちらほらとね。何せ、大企業のゴシップだから、ブン屋さんが何人か。ほら、際どい記事が週刊誌に出てただろ?」
「見てません」
「それくらいチェックしな。あぁ、あんたの名前は出てないよ、未成年だからね。それと経済誌のほうもいくつか動いていたけど、あんたのお父様に潰されたようだ」
 葉子の喋り方は儚げな外見イメージと比べると違和感を覚える。史緒は慣れるのに少し時間がかかった。葉子は持っていた本を戻し終えるとカウンターのほうへ足を向けた。なんとなく、史緒もそのあとをついていく。
「関谷くんも最近見かけないね」
 カウンターの中で本を整理しながら葉子が言う。史緒はカウンターに両肘をついてその様子を眺めていた。
「そうなんですか?」
 そうとしか答えようがない。
「会ってないの?」
「…」
 葉子は返事をまたずに、パソコンのキーボードをいくつか叩いた。
「関谷くんの貸出履歴がひと月以上カラになるなんて、今までなかったのに」
「篤志ってどんな本借りてるの?」
「司書にも守秘義務がある」
 ディスプレイを覗こうとしたら、葉子に阻まれた。史緒は別のことを訊いた。
「篤志、ここを利用して長いの?」
「もう6年くらいかな。私が初めて見たのはヤツが小学生だか中学生だか…それくらいだったから」
「え、でもその頃の篤志は横浜在住でしたよね」
 ここに通うには無理があるのでは、と史緒は首を傾げた。
「あぁ、この近くに病院があるんだ、1年間ぐらいそこから車椅子で通ってた」
「車椅子?」
「あれ、知らない? 怪我で入院したんだって」
「初耳です」
 葉子は肩を竦め「まずったかな」と呟いた。口を滑らせてしまったようだ。それを取り繕うように話題を転換する。
「で、今日、あんたは何しにきたわけ?」


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