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「この間の話を、詳しく聞かせていただきたいんです」
 史緒が言うと、葉子は、うん?、とペンを弾きながら顔を上げた。「この間の話」が何なのかすぐに思い出したようだ。椅子に背を預け、何か考えるように指先で器用にペンを回転させる。
「そっか、確か来週だったね。もう、ふた月経ったんだ。…行くの?」
「正直、迷ってます」
「あぁ、それならやめたほうがいい」
「…」
「中途半端な覚悟じゃ先方に迷惑をかける。他人に相談してフラフラしてるような覚悟なら以下同文。紹介した私も信用を無くす。行かないでくれ」
「…半端な覚悟というわけじゃありません」
「じゃあ、なに」
 容赦ないツッコミに、史緒は尻込みしそうになる。意地も手伝って力強く答えた。
「簡単な知能テストと50足らずの設問だけで通るような試験に疑問があります」
「相手の身元なら保証するよ。名前の通りの人だから」
「ええ、それは知ってます。でもおかしいでしょ? 私みたいな子供が」
「それが中途半端な覚悟だっていうの」
「違います!」
「頑迷だな。ネットの申し込みの際、テストがあったろう。さっき言った知能テストと設問とやらだな。それがあちらさんの採用基準なんだ。あんたに声がかかったなら、採用されたってことだよ。何が不満なんだ」
「あちらの本心が知りたいんです」
「本心…? ははは」
「何が可笑しいんですか」
「お子様だねぇ」
「どういう意味ですか」
「まぁ、いいじゃないか。どうせ来週には顔を合わせることになる。そのときに何でも聞いてくればいい」
「それはそうですけど」
「悩んでるならやめとけ───…ちょっと離れてて」
 突然、葉子は声をひそめた。エントランスに視線を固定する葉子から史緒はすぐに察した。無言のまま自然に足を運び、近くの本棚に待避する。カウンターから5メートルは離れた。棚の影で本をぱらぱらとめくる史緒の姿は、今、入館してきた男───40代だろうか───からは、単に図書館の一利用者としか思われないだろう。
「谷口」
 男の声が微かに届く。史緒が横目で見やると男はスーツで手ぶらだった。
「どうも、入金は確認してます」
 と、葉子が答える。そしてA4版の封筒を男に渡した。男はそれを検分せずに脇に抱え込む。葉子は笑って言う。
「たまには本を借りていったらどうです、カモフラージュの為にも」
「名前を取られたくない」
「偽名でも結構」
「ばれたときに揉める」
 ぼそり、とそれだけ言って、男は踵を返し出て行った。
 谷口葉子。彼女はこの都立図書館の司書という職業の他に、もう一つ、副業がある。
 彼女は司書という立場を利用し、そして図書館という場所をも乱用して、堂々と情報の売り買いを行う。図書館というものは思いの外、幅広い年齢と職種の人間が出入りするもので、それらと共に情報も常に流動的である為、データベースやデータバンクより更にリアルタイムな情報を得られる場所なのだ。個人レベルの情報機関としてはかなり有名な人物らしい。
 図書館を利用するでもなく葉子の元へ訪れる人の動きに、ある日史緒は気付いた。半月のあいだ観察して、それが何を意味するのか葉子に訊いてみた。
「考察もせず結論も無しに観察結果だけを持ってきて答えを知ろうなんて、小学生かあんたは」
 と、葉子は笑う。
「そこまでの材料を押さえているなら、誘導尋問する器量くらい欲しいね」
 答えを教えられて、史緒はそういう職業が実在することに驚いたものだ。
 男が帰った後、史緒が再びカウンターに寄ると、葉子はもう司書の仕事に戻っていた。
「世も末ですね。公務員が情報屋なんて」
 史緒の嫌みが通じたのか、それとも通じなかったのか、葉子は微笑をもらした。手を休め、史緒を真正面から見つめる。
「図書館は情報屋だ」
 それがさも聖書の一句かのように、葉子は厳かに言う。
「周りをごらん」
 葉子は顔をあげて、広い室内を見渡す。
「これは全て、情報だろう」
 立ち並ぶ本棚、万は下らない蔵書を背に葉子は言い切った。
「たくさんの本を前にすると興奮しないか? 自分の知らないことがこんなにあることに。世間の出来事や表沙汰にはならない歴史。知らない言葉、知らない分野。人のなかの光と影、作家の妄想世界。すべてに目を通すには人間の一生は短すぎる。何百年も語り継がれている寓話、後世に託す学術的探求。これらは人間の歴史そのもの。───それらを無料で貸しているとは、図書館は一番収益の無い情報屋だ」
 ペン端で顎をつつく。
「で、図書館に無い情報の流通を、私は副業しているというわけだ」
 次にそのペン端で史緒を差す。
「あんたもこの業界に入るなら、扱うものの真価を自分なりに定義づけておきなさい」

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