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「相変わらず学校へは行っていないのか?」
と、政徳は訊いてきた。
「はい」
質問の意味が判らず史緒は眉根をひそめる。今更、子供の常識はずれを心配しているわけではあるまい。
「行く予定もないか」
「…はい」
ただ頷くだけの史緒を、政徳は真正面から見据えた。
「アダチに入るための準備をしろ。勉強させる」
史緒はその台詞の音を理解するのに5秒かかった。「───え?」
政徳は苛立たしそうにまた溜息を吐いた。「もう一度言おうか?」
「ちょっと、待って」
和成を見る。彼は無表情で視線を落としていた。恐らく知っていたのだろう。そのことに何故かショックを受ける。今更ながら政徳の言葉を理解し史緒は愕然とした。
アダチで働け、というだけの意味で無いことは史緒にも判った。役に立たない娘をコネで雇おうなどと、政徳は絶対に考えないだろう。
「…お父さん?」
まさか、と史緒は思い立つ。それを完全に否定することはできなかった。
(まさかアダチを名乗らせようとしてるの?)
考えるだけでぞっとした。
「自分が阿達の人間だということを忘れてないだろうな」
史緒の内心を肯定するようなことを言う。
「そんなの知らないッ」
「何でもそうだが、知らないでは済まされない。───どう足掻いても、将来おまえはアダチに入ることになる。どうせやることが無いなら、今から始めればいい」
「や…やることはあります!」
震える声でどうにか訴えると、政徳は興味深そうに先を促す。
「へぇ」
「き…今日はそれを言いに来たんです」
「で?」
「働きます」
不器用な直球に、政徳は失笑した。和成は目を瞠った。
「学校へ行ったこともない、他人との付き合いも知らない、世間から逃げ、引き篭もっていたお前に何ができるんだ?」
ガタンと椅子に音を立てさせて政徳が立つ。史緒はその音に情けないくらい動揺してしまった。
「社会の駆け引きも厳しさも知らん人間、しかも15の子供がどうやって働くと?」
息が詰まる。力を込めた手に爪が食い込んだ。睨んでくる政徳の視線は強い。それに呑まれてしまうのが怖くて、史緒は目を逸らした。
(悔しい)
何も言い返せないくらい、何もしてこなかった自分が悔しい。
閉じ篭もっていた年月を後悔しても遅い。取り戻すことはできないから。
アダチに入る? それは冗談じゃない。古い話だが史緒は司の事件と、さらにそれを隠蔽した父を許せなかった。
「それでも…ここに来るのは、嫌です」
「血縁の後継者が必要だ」
「だからって」
「おまえの今までの無駄飯食いは、ここの金だということを忘れているようだな」
「だからって、そんな、後継って、今までそんな話したことなかったじゃない。今までは、さく───」
自分の言葉に驚いて大きく瞠る。
政徳は微かに顔をしかめて、静かに言った。
「…その櫻を 殺したのは誰だ」
「信じてないくせに!!」
叫んでいた。
ダンッと机が鳴る。
「では、人殺しだと罵れば満足なのかッ!」
「…っ」
予想外に強い言葉を返され史緒は息を飲む。
「甘えるな。周囲の人間はおまえを満足させる為にいるわけではない。いくらなんでも、それくらいは判っているだろう。───今のこの状況が自分のせいだということを忘れるな。本来ならそれなりの罰を受けてるところだ」
史緒はたがが外れたように大声を張り上げた。
「私はそれでも構わなかった! …それを、醜聞を恐れて、七瀬くんのときと同じように隠蔽したのはお父さんじゃない!」
「史緒」
と、和成の諫めるような声。それを無視して大きく息を吸う。
「“本来ならそれなりの罰”?」
震える声で嗤う。涙が滲んだ。
そんな理想的な世界ではないことはとうに知っている。
すべての罪に罰があるわけじゃない。
すべての善が笑うわけじゃない。
史緒はそれを目の前で見ているから。───遠い昔のことだ。
「それなら、どうして誰も櫻を罰しなかったの…?」
「なんの話だ?」
「なんでもありません!」
両手で胸ぐらを掴む。それ以上、記憶を呼び起こさせないために。
(思い出しちゃだめ、思い出しちゃだめ…!)
「まぁいい」と政徳は息を吐いた。「実際にアダチを動かすのは篤志だ。ここに来るのが嫌だというなら、おまえは適当に遊んでいればいい」
耳が聞こえなくなったのかと思った。何を言ってるのか判らなかったから。
今度こそ本当に絶句する。
(何言い出したんだろう、この人は)
(篤志?)
何故そこに彼の名が出てくるのか。
「篤志とおまえが結婚して、篤志がアダチを継げばわたしに不満は無い。ここも安泰だ。やつは期待した以上に優秀だったな。こちらの調査では申し分無い。おまえらと遊んでいても名門大学に受かったんだ、甲斐性もあるだろう」
「そんな勝手な…っ」
史緒は政徳に詰め寄った。
「今まで私のことなんか気にも留めなかったくせに…ッ、櫻が死んだら篤志と結婚しろ? …篤志にアダチを継がせる? …冗談やめて、勝手なこと言わないで!」
だめだ。それだけはどうしても許せない。
司だけでなく篤志までアダチに巻き込むなんてできない。それは許せない。
こみあげる怒り。胸焼けと嘔吐感。
怒りで涙が出たなんて初めてだ。
握り締めた手が、大きく震えている。
私は今まで何もしてこなかった。その反動がこんな風に表れるなんて───。自業自得。
(………自業自得?)
今、思うようにならないのは、今まで何もしてこなかった代償だと、それは解ってるつもりだった。解ってるけど、足掻き続ければ突破できると思っていた。
でもそのせいで他人を不自由にさせてしまうというなら。それに気付いてしまったら、ひとり脇目もふらず自分勝手に足掻くことなどできるはずもない。
───ああ、それならせめて。
「篤志を巻き込まないで! 私だけにして!」
「自惚れるな」
太い失笑が漏れる。
「何年も家に引き篭もっていたおまえに、人の上に立つ資格は無い。おまえに何ができる? おまえには何もできまい」
ぞわり、と何かが体を駆け抜けた。
そして弾ける。
▲6.走る体
きっと、誰にでも、こんな瞬間があるのだろう。
自分を殺した経験。
そこから目覚めさせた光。
自分を生かす希望。───走り出す決意。
死んでも構わないと思ってた。死にたくない理由は無かったから。
生きたい理由はいくつかあった。でも、どれも棄てて構わなかった。───ネコのやわらかい毛並みを抱いていたい。その程度のことだ。
どれも、胸を撃つ痛みに耐えられる希望にはならない。
未来は無い。したいことも、できることも無い。私は子供だし、「何の苦労も知らないお嬢さん」で、大した苦労もしてないし不幸でもない。「死んでも構わない」なんて口にできない。でも思ってた。
生きたくても生きられない人間もいるんだから。───だから? それが、なに?
そんな風に誰かの事情を憐れんで同情して比較して生きたくなんかない。私は私のための生きる理由が欲しい。そんなもの見つからないから、撃たれてそのまま死んでしまいたかった。
(でも)
今、切ない熱情が胸を熱くする。
静かな激情に指先が震える。
体がふわりと軽くなった。肩に重い何かを背負っていたことに、今初めて気が付く。
(どうして私は、立ち止まっていたんだろう)
部屋に閉じ篭もったままで。
(どうして走らずにいられたんだろう)
過去の自分を責めるつもりはない。たった数分前はこんな熱があることを知らなかった。こんなに目の前がクリアになったことは無い。
父の言葉にはひとつだけ誤りがある。
(私が何もできないなんて嘘だ)
確かに、私はまだ何も成していないけど。
(これから先、できないことなんて何もないんだ)
その思いに胸が焦げた。
今、この瞬間に、たくさんのことを理解した。
(死んでも構わないのは、生きる理由が無かったからだ)
(周囲からの棘や圧力に身を削られるのが辛かったから、それから逃げたかったから)
生きる理由を探すことはこんなにも簡単だった。目的をでっち上げてしまえばいい。
(目的がないから、ほんの少しの痛みにさえ倒れていたんだ───)
染み入る幸福感に涙が滲んだ。抑えきれない激情に体がわななく。
大丈夫、まだ何もしていない、まだ強くなれる。
かつて和成が言っていたではないか。「何かを守るのは簡単じゃない。でも自分を守るときより、ずっと強くなれる」と。
(では、私はたくさんのものを守るために生きよう)
(醜いエゴでもいい、自分のために、この手が届くすべてを)
これから手にするもの。このさき出会う誰か。父の言いなりにならない自分、その私が望む世界。
すべてを守るために。
もう、迷いは無い。
「───私、家を出ます」
真っ直ぐに、阿達政徳と一条和成を見据えた。
「なに…?」
2人はぽかんとしている。政徳でさえ史緒の言葉の意味をすぐに理解できなかったようだ。
臆することはない。
「篤志と結婚なんてしない、お父さんの思い通りにならない。私は家を出て、独立します」
つづく
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