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▲5.復讐の代償
史緒が図書館から帰ると、玄関に関谷篤志が出迎えに出てきた。
「よ。ふた月ぶりくらいか」
と、あの事件の前と変わらない笑顔を見せられ、史緒は肩すかしを食らったような気分になる。
「…」
本当にこの再従兄はよくわからない。
ふた月の間、現れなかったのは、史緒を見放したからではないのか?
「ほんと、久しぶりね。忙しかったの?」
靴を脱ぎながら、探りを入れる意味で尋ねた。多分、篤志は史緒の意図に気付いただろう。
篤志は低く笑う。
「俺が受験生だって忘れてたか」
一瞬凍り付いた後、あ、と史緒は声を上げた。長く訪れなかった理由が判って、憎らしいような安心したような複雑な心境になる。
「無事終わったの?」
史緒が先に立って廊下を歩く。篤志も歩調を合わせて付いてきた。
「ギリギリ、なんとか」
「おめでとう」
「ありがとう。またこっちに通わせてもらうから、よろしく」
「…櫻はもういないのに?」
「おまえと司がいるからな」
「櫻を殺したのは私なのに?」
篤志は足を止めた。「いいかげんにしろ」怒気を孕んだ溜息を吐く。
「吹聴して他人に認めてもらわなきゃ自覚できない、そんな罪なら捨てちまえ」
「!」
引っ張られたように史緒が振り返った。痛いところを突かれたように顔を顰める。
「そんな話を聞いて面白いはず無い、わざわざ他人に不愉快な思いをさせたいのか? 本当におまえが犯した罪なら、黙って背負ってろ」
篤志の言うことが解ったからこそ、史緒は反論しなかった。おそらく司が言っていたことも同じなのだろう。史緒はそれを吟味するために俯く。すると篤志の苦笑が聞こえた。
「…なんて、偉そうなこと言っても、多分俺は、信じてないんだ」
「───なに?」
「おまえが自分の願望を、都合良く起きた事故にはめ込んでるように、俺には思える」
史緒は崩れそうになる脱力感を感じた。少しの悲しさを自覚した。
「…あぁ、初めから信じてなかったんだ」
だから、櫻を殺したと言う史緒の前でも、いつも通り笑っていたんだ、と。
「あ、悪い、違うな」手を振って否定を示した。「俺は信じられないんじゃなくて、───信じたくないんだ」
史緒はその言葉をどう受けとめていいか解らなかった。史緒の自白を信じたくない、と篤志は少しも悪びれずに言う。その態度は少しばかり腹が立つ。
「俺の勝手だろ?」
鷹揚に胸をそびえさせる篤志。史緒はそれに顔をしかめたが、
「確かにね」
と、苦く笑う。
そのままダイニングに向かおうとする史緒に、じゃあなと軽く手を振って篤志は階段を上っていく。
「あ、そうだ」と史緒は呟いた。
「なに?」
「私、家を出るかもしれない。近いうち、お父さんにも言うつもり」
「は───?」
階段の上から篤志が何か言っている。しかしそれを聞き流し、史緒はダイニングの扉を閉めた。
史緒は生まれて初めてそこを訪れた。株式会社アダチ本社ビルである。
皺ひとつ無い白いスーツに、薄いピンクのブラウス、履き慣れない革靴は歩きづらくて仕方ない。袖はつっぱるし、肩も硬い。でも周囲を見回すと大半の大人はこれと同じような服を着ているし、史緒にはよく解らないがこれがごく常識的な恰好なのだろう。
TPOというものがあります、とマキは楽しそうに諭す。父親に会いに行くと言ったらマキは大層驚き、史緒を朝早くに家から引きずり出し、ショップでまるで着せ替え人形のような扱いをした。口を挟む余地が無いまま上から下まで着飾らせられるとそのまま電車に押し込められた。
今まで父親と関わろうとしなかった史緒が、その父親に会いに行くと言い、マキは嬉しかったのかもしれない。そんな明るい話をしに行くわけじゃ無いのだけど。
昨日、父への面会を和成に申し出たところ、「忙しい、会社に来い」という言づてが返ってきた。 そして今、史緒は初めて父親の会社の扉を開く。
大きな回転扉を通り抜け、史緒はビルの中に入った。
天井が高く、広いロビーの中では、そこかしこにスーツ姿の大人達が行き交っていた。その慌ただしさに呑まれ史緒は歩行にさえ戸惑う。通り過ぎる幾人かは、物珍しそうに史緒のほうへ視線を投げていた。どんなに無理をしても、史緒は子供にしか見えない。何故こんな所に子供が? そう思っているのだろうが問いただしてくる人間はいなかった。
正面の受付カウンターには女性社員が3人座っている。やはりここは受付を通すのが道理だろうと、史緒はカウンターに近寄った。
受付嬢のひとりは史緒の姿に気付くと一瞬目を丸くした。一瞬だけだ。一流商社の総務部たる者、子供くらいで動揺してはいけない。けれど、その受付嬢はちらりと視線を動かした。その先には大きな柱の前に仁王立ちする守衛官がいる。注意するよう、アイコンタクトで黙契が行われた。
史緒がカウンターまで5歩の距離に寄ったとき、受付嬢はさも今気付いたというような仕草を軽く見せ(そういうマニュアルなのだ)、笑顔を向けた。
「おはようございます」
隙の無い高い声が明るく響く。少し驚いて、史緒は小さく返した。
「…おはようございます」
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「父に面会に。アポイントは取ってあります」
「お父様、ですか」
「ええ」
受付嬢は眉を顰めるような真似は絶対にしない。マニュアル通りの質問を投げた。(最も、親に面会に来た子供に対するマニュアルなど無いが)
「部署名はわかりますか?」
「…」
史緒は口篭もる。
「部署は…ちょっと、わかりません」
「そうですか」
と、受付嬢は完璧な笑みを見せた。胡散臭いほどの笑顔だったが、こうでもなければ商社の受付は務まらないのだ。
例えばここで史緒が「父はここの社長だ」と言えば、受付嬢は慌てて確認を取り、丁寧に史緒に応対しただろう。史緒がそれをしなかったのは、この父親の本拠地でその娘だと名乗りたくなかったからだ。好奇の目で見られるのは避けたかった。
「お名前は?」
「阿達といいます」
かたり、とそのままキーボードに打ち込もうとしていた受付嬢の手が止まる。背後にも大きく掲げられている、自らが所属する会社名を思い出したのだろう。このとき受付嬢は迷った。あだち、とはどんな漢字なのか、それともフルネームを訊くべきか。
後者を実行しようとしたところで、ロビーの離れたところから別の声が響いた。
「史緒さん!」
史緒ははっとして振り返る。エレベーターホールのほうからスーツ姿の和成が走ってくるところだった。
「…一条さん!」と声を上げたのは史緒ではなく受付嬢。大きく見開き和成と史緒へ交互に視線を向ける。
和成は足を止め呼吸を整えると、史緒に向かって丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです」
たまらず史緒は顔を背けた。和成の行動は「社長令嬢」に対してのものだ。そんな扱いをされたくはないし、なにより親しかった相手に敬語を使われるのは悲しい。それを素直に言えるほど子供では無いので、和成が頭を上げたときには史緒は視線を戻していた。
「先月、会ったわ」
そっけない返答に和成は苦笑した。
「あの、一条さん」と、横から声をかけたのは先ほどの受付嬢で、「この子は…」戸惑いの表情を見せる。
ああ、と和成は答えようとしたが、鋭い視線で史緒に睨まれ、言葉を飲み込む。
「今度からこの子が来たら私に連絡してください」
と、言うに留めた。
「大丈夫です。もう二度と来ませんから」
史緒は受付嬢に捨て台詞を残す。それに対し和成は何かいいかけたが時計を見て表情を改める。
右手を差し伸べ、史緒をエスコートした。
「さあ、行きましょう。社長がお待ちです」
アダチ本社ビルは地上43階、塔屋1階、地下4階で、社長室は役員室とともに13階にある。これは有事の際にはしご車がとどく41メートルぎりぎりの高さだ。
そのフロアは床が絨毯だった。エレベーターを降りた瞬間から足音が消える。エントランスやロビーと違い、人の気配が全く無い。同じ建物内とは思えないほどのギャップだった。
先を歩く和成に遅れないように足を動かすが、その動作はどこかぎこちなかった。ヒールの革靴で絨毯の上を歩きにくかったこともあるが、なにより…。
長い廊下を歩き、突き当たりを曲がり、さらにその先を和成は指し示した。
思考はいつも通り平常なのに、心拍数が異常な速さで胸を打っている。信じられないほど指先が震えていた。
(私、緊張してる)
史緒はそれを自覚した。その、重く大きな扉を目の前にして。
*
その部屋の窓はすべてブラインドで閉じられていた。防犯の為だろう。それでも漏れる少しの陽光は部屋を照らしている。それを補うように室内の照明も点っていた。
広い部屋の奥、木製の大きな机に座る男がいる。このビルを占める大企業・アダチの社長、阿達政徳である。
史緒の背後で和成が扉を閉めた。すると和成は史緒の傍を離れ、部屋を横切り、政徳の斜め後ろに立つ。それは彼の立場上、当然の行動だ。しかし史緒は、その立場の違いを線引きされ政徳と和成2人と向き合うことになり、途端に息苦しくなった。政徳と正面から対峙するとさらにそれは増した。
「こうして対面するのは本当に久しぶりだな」
政徳の低い声は室内に驚くほどよく響いた。史緒は特に懐かしいとは思わない、最後に会ったのはいつだったろう、と思考を巡らす。
はぁと政徳の溜息が聞こえた。
「挨拶くらいできんのか」
と、苦々しく苛立ちを隠さない声。史緒は慌てて頭を下げた。
「お久しぶりです、お父さん」
すぐに頭を上げると、値踏みするような政徳の視線とかち合う。ふいと顔を逸らしたのは政徳で、その視線は次に和成に向けられた。
「申し訳ありません」
促されたように和成が目礼する。───史緒は、かっとなった。
「どうして一条さんが謝るの」
「おまえの教育係として和成を雇っていたのはわたしだ。充分な結果を出せなかった和成が謝罪するのは当然だと思うが」
充分な結果を出せなかった、というのは史緒が至らないということだ。
史緒は声を返せない。父の言うことは正しい。和成に謝らせなければならない自分が悔しかった。「ところで、話があるとか?」
「───はい」
危うく頷きそうになったがどうにか返事を返す。
「その前に、こちらからも話がある。先に聞いてもらおう」
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