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「ねーえ、由眞さん」
3人が退出した後、藤子は甘えるように由眞の椅子に凭れた。
「なぁに」
一息吐く由眞は藤子の言葉に耳を傾ける。
「本当にやるの? そんなにうまくいくとは思わないけどなぁ。あたしが言うのも差し出がましいけど」
「年寄りの道楽よ。それなりの結果が得られれば満足だわ」
「それなり、ね。当人たち、聞いたら怒りそうだけど」
「あら、だからあの子達の前では言わなかったでしょう」
由眞は目を細めて笑う。
彼ら3人、プライドだけは並以上、己の仕事を「それなり」で済まそうなどとは思ってないだろう。しかし実行前からプライドを振り翳すことは子供にもできる。具現させるため、そして由眞自身が見極めるために1年という猶予を敷いたのだ。
「少なくとも、私は1年間、遊ぶことができるわ」
「ずっとやりたかったことだもんね」
「まだまだよ、スタート地点にさえ立ってない。あの子達が成長して活躍してくれなくちゃ」
「何年先かなぁ」
「私の目が黒いうちに成果を見せてもらいたいものね」
不敵な笑みを浮かべ容赦ない物言いをする。「悪く無い素材を選んだつもりよ。まずは1年間、手腕と頭脳を計らせてもらいます」
楽しそうな由眞の横顔を見て、藤子も歯を見せて笑った。すると由眞が振り返り言う。
「あなたも、本当に私の道楽に付き合うの? 私の傘下に入らずとも仕事は順調でしょう? 却って邪魔することにならない?」
「あたしは由眞さんの傍にいられるなら、なんでも」
頓着無さそうに答える藤子。相変わらず由眞の背もたれに寄っかかり、それが楽なのか目を瞑りくつろいでいる。
そういえば、と由眞は別の話題を口にした。
「あなたの新しい恋人って、あの、北田氏なのね。大丈夫なの?」
藤子は苦笑する。
「新しい、って…。あたしがすごく尻軽みたい」
「それは失礼。nextではなくbeginよ」
「ふふ。晴ちゃんは、あたしに復讐する気はないの」
「そう?」
「狙いは別のトコ。あたしをどうこうする気はないの。今度、紹介するね」
「楽しみにしてるわ」
* * *
「さて…」
と、溜め息混じりに呟いたのは的場文隆で、3人が近場の喫茶店に入って20分が過ぎた頃だった。
その間、誰も一言も発しなかったのは、それぞれ考えることがあったからだ。端から見たら、ずっとだんまりな3人組はおかしく見えたことだろう。座ると同時に注文した「アメリカン3つ」は結局誰も口を付けないまま冷めてしまった。
「改めて自己紹介でもするか?」
「いや、とりあえず名前は覚えた」
「私も」
御園真琴に倣って史緒も頷く。すると的場が「あ」と短い声を上げて史緒を指さした。
「なぁ、“阿達史緒”って、もしかしてあのアダチ?」
「知ってるの?」
「一人娘の噂は有名だったから」
「どんな噂?」
訊いたのは御園だ。
「えーと、…引き篭もりだっていう」
言葉を選んだ的場の気遣いを察して史緒は苦笑した。「そんな可愛い噂じゃないでしょう?」
アダチの娘は精神を病んでる。そういう噂が流れていることは史緒も知っている。亨や咲子の葬儀の時節、自宅を訪れていたアダチ役員らから伝わったのだろう。
「噂は当てにならないってことは解ったよ」的場は苦笑して、「まぁ、うちも経済界の動向を無視できない稼業だから、耳はいいんだ」と付け足した。要するに、噂と違ってアダチの一人娘はこうして初対面の人間と会話できるくらいには社会適応性を持ち合わせているということだ。
「で、何者なんだ? あの女。あ、婆さんのほうな」
「あ、そのことについては、多分、僕が一番詳しい」
文隆の疑問に真琴が反応した。
「桐生院のブランドは知ってると思うけど」
「紡績の?」
「そう。かなり古いよ、大正まで遡るんじゃないかな。社歴にこの人ありと謳われた前社長は3代目で、傾きそうになった会社を何度も建て直した辣腕家だって。数年前に死んだけど」
「で?」
「その前社長、夫人」
「あの人が?」
「そう」
「へー」
「役職は?」
「無い。筆頭株主なだけ。普通に51%所有」
「あんな大きな会社の筆頭株主が個人、って珍しくない?」
「いや、名義は企業になってる。といってもほとんどあの媼の個人会社だけど」
先ほどのマンション、「YK」がそれだという。
「どちらにしろ、婆さんが“桐生院”の最高権力者ってことか」
「ちなみに、桐生院というのは本名じゃないよ。前社長も桐生院を名乗ってたけど、後になってブランド名を自分に冠したわけだ」
「詳しいのね」
「うん、まぁ、古いことは得意」
さして面白いことでもないという風に御園は嘆息とともに椅子に背を付く。
的場が言葉を継いだ。
「その大会社の筆頭株主の婆さんが何のつもりなんだろうな」
史緒も考える。
「未成年の私たちに仕事を持たせる、それも1年間は収支決済は要らず、1年後に辞めても返済無用、続けた場合のペイメントも雀の涙───…あの人に何かメリットある?」
「無い」
的場の即答に御園はくすりと笑った。しかしすぐに思い出したように「あぁ」と呟いて顔を上げた。
「でもさ、簡単には辞めないような事情があってこの条件で飛びつくような切羽詰まった人間を選んだんだと思うよ、あの媼は」
「どこまで調べてるんだよ、あの婆さん」
「知らないほうが幸せかもね」
声を顰めた的場と冷えた笑みの御園。不服を唱えながらも挑むような口調に、史緒は視線を上げた。
「…2人とも、断るつもりはないのね」
思わず呟くと、御園は心底意外そうに目を向けた。
「この条件なら頭下げてでもやらせてもらいたいな、僕は」
「阿達さん、この話、蹴るのか?」
「え、…ううん、そういうわけじゃないけど」
勿論、史緒は乗り気だ。そのために今日ここまで来たのだから。
的場が御園に訊いた。
「人増やしてもいいかって訊いてたろ? 誰かいるのか?」
「一人は決まってる」
「俺も、数人候補はいるけど。阿達さんは?」
「私はひとり」
「手伝いでも誰かいたほうがいいんじゃないか?」
「そうだよ、精神的にも大変だと思うよ」
「うん、でも私、そういう親しい知人もいないしね」
*
最寄り駅で3人は別れた。
文隆と真琴は同じ路線だったので、史緒と別れた後、並んで歩き出す。
「どう思う?」
そう訊いたのは真琴だ。省略された目的語を文隆は正しく理解していた。
「あの試験を通ったんだから頭はあるんだろうさ。でもな」
「でも?」
立ち止まり振り返る。先ほど別れた史緒はもう見えなかった。
「あれはちょっと、覚悟が足りないと思うな」
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