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7.櫻と史緒

 その日の昼下がり、別荘の玄関から出た史緒は湿った風を感じた。無意識に空を仰ぐ。黒い雲が低く見える。雲の動きなど知る由も無いけれど。
 多分、雨になるだろう。
 そのとき、確かに史緒は頭の片隅でそう思った。しかしそれは決して、不吉な予感ではなかったし、カレンダーを見て祝日に気付くのと同じくらいどうでもいいことだった。遠く、風が波を打ち付ける音が強く鳴っている。だが、それもいつものことだ。特に気にせず、史緒はキョロキョロと首を動かしながら林のほうへ歩いた。
 ネコの不在に気付いたのはついさっきのこと。別荘の一室で、篤志と司と、真木が淹れてくれたコーヒーを飲みながら話をしていたときだった。ネコ探してくる、と言って史緒は部屋を出た。どこの部屋にもいなかったので家の外に出た。
(ネコ…?)
(どこ行ったの?)
 史緒は林の中を歩いていく。
 風が強く、針葉樹の隙間を通り過ぎる音がする。その葉が擦れ合う音が痛々しく響く。仰ぐと、黒い雲がもの凄い速さで空を覆い尽くそうとしているのが見えた。
 その嵐の前兆に史緒は不安になった。
(ネコ…)
 そのとき、うるさい風の合間から微かな泣き声が聞こえた。
「───ネコ!?」
 小さく叫んで史緒は細い砂利道を走り出す。辺りを注意して見回しながら先へ急ぐ。しかし草むらの影にネコを見つけることはできなかった。
(どこ?)
 さらに先へ進み、躊躇なく草葉を割って入る。
 すると突然、視界が拓けた。
 高木が途切れた。
 海が見えた。
 崖の上に出た。
 一面の曇天に向かい立つ人影がひとつ。
 ──ぞわりと鳥肌が立つ。

 息を飲む。
 その場所は知っていた。そうだ、真木に危ないから近づくなと言われていた場所だ。
 林道から外れ、整備されてない土肌。見晴らしのいい丘だが、その向こうは断崖絶壁で下は海。
 そしてこの強風のなかでも臆すること無く崖縁に立つ阿達櫻。───その腕に抱かれているネコ。
「…おまえか」
 振り返った櫻がつまらなそうに言った。視線を向けられただけで史緒は震えてしまう。
「ネコ…、放して」
 それだけ口にするのにも極度の緊張を強いられた。
「あぁ、いいよ」
 櫻はネコの首根を掴み、その手からぶら下げ、腕を伸ばした。崖縁の向こう側へと。
 そして口端で笑う。「放(はな)そうか?」
「やめてッ!」
 千切れそうな悲鳴をあげる史緒。櫻は腕を下ろすついでに無造作にネコを放り投げた。「…ひッ」
 ネコは史緒の足下の草の上へ転がった。猫科の習性から難なく着地する。
「ネコ…っ」
 史緒はネコを抱き上げ安堵の声を漏らす。その様子を櫻はつまらなそうに見ていが、ふと何かに気付いたように史緒に言った。
「そいつはもうすぐ死ぬよ」
「!」
 史緒は息を詰め青くなった。
 櫻の呪いのような言霊。
 史緒は呆然としたまま何かに撃たれたようにその場に膝を落とした。
 その呪いを取り払おうとネコを強く抱きしめたけれど、一度染みついた汚れのようにそれは消せない気がした。
 そんな史緒の様子を意に介さず、櫻は辺りを見回し史緒に声を掛けた。
「おまえとは前にも一度、ここで話したことあったよな」
 崖縁に立っているというのに、櫻は悠然と胸を反らす。「覚えてるか?」
「…?」
「そのときは蓮家の末娘と、…亨がいた」
(───)
 その記憶を史緒は今の今まで忘れていた。けれどそれが鮮やかに蘇る。
 思わず振り返った。
 蘭が駆け寄る。しおさん、捕まえたー。その後ろから歩いてくる亨。こんな所にいたのか。
 そろそろ戻ろう。マキさんが待ってる。
 櫻も。行こうぜ。そーだよ。櫻くんも行こー。
 それが現実だったかと疑うほどの眩しい記憶。どこで違ってしまったんだろう。
(…亨くん)
 史緒は本当に久しぶりに彼の顔を思い浮かべた。しかしすぐに、その記憶を振り払うために目を瞑り首を振る。何故なら彼の顔は、目の前に立つ櫻と同じものだからだ。
「史緒」
 櫻が呼ぶので反射的に顔を上げてしまった。櫻と目が合う。櫻はゆっくりと口を開いた。

「───は生きてる」

 そのまま次の台詞を口にした。
「黒幕は咲子だな」
 それだけ言うと櫻はぷいと海のほうへ目をやった。さらに強くなった風が丘の上を走り抜けた。史緒はその風に目を瞑る余裕さえなかった。
「……え?」
「2度は言わない」
「ふざけないで…ッ!!」
 大声を出したせいで涙が滲む。込み上げてくるものがある。呼吸が乱れた。
 今さら、何を言うのだろう。
「櫻が」
 眩しい遠い日の記憶を櫻がその手で断ち切ったくせに。
「櫻が、…───…ぃッ!」
 声が掠れて言葉にならなかった。けれど櫻は解っただろう。
 このとき史緒は、何度も忘れたいと願った記憶を───桜の花が散る幻覚を見た。
「櫻が…っ! …私の、目の前で…」
 風が強く吹いた。
 その風は陸から吹き荒び、史緒の長い髪と櫻のコートを空に靡かせていた。


 そうだ。前にこの場所で。
 ───ここから落ちたらどうなると思う?
 そんな話をしたのだ。
 櫻が。

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