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8.篤志と和成
「さくら、おちた」
と、史緒から聞かされた後の篤志の処置は迅速だった。その場を司に任せ、全速力で林の小径を走る。途中、雨が降り出した。それはあっというまに激しくなり、足下の草を浸す。遠くで雷が鳴った。篤志は舌打ちして、腕時計の針を読む。───午後4時7分。嵐が近づいてくる、辺りは暗くなり始めていた。
別荘まで辿り着くと、篤志は転がり込むように玄関を開けた。そして怒鳴る。
「マキさん!!」
その声で有事を察したのか、家政婦の真木敬子が慌てて廊下に出てきた。洗濯物を取り込んでいたところだったらしい。
肩で激しい呼吸を繰り返す篤志に何事か尋ねようとしたが、それより先に篤志が喋った。
「櫻が崖から落ちた、119番して」
真木は悲鳴をあげた。篤志は息を切らしながら続ける。
「警察にも連絡を。マキさんは史緒と司を迎えに行ってくれ、2人は崖の上にいるから。雨が酷いからマキさんも気をつけて」
篤志の敏活な指示にマキは狼狽えながらも頷く。
「篤志さんは…」
「下に行く、車、借りるよ!」
玄関先に置いてあったキーを掴み、篤志は再び外へ飛び出して行った。すぐそこの駐車場には、別荘へ来るときに皆で乗ってきた白いワゴンが1台。篤志は運転席に飛び乗り、イグニッションキーを回す。アクセルベタ踏みでバッグする。実は篤志は無免許であるが、今はそんなことを気にしていられない。ギアをロウに入れると、雨で前がほとんど見えないことに気付いた。ワイパーのスイッチを入れる、けれど篤志はすぐに発進させなかった。
ハンドルを握る両手が震えていた。それを自覚した途端、どうしようもない不安に襲われ篤志は叫びそうになる。それを払拭するために拳で窓を叩いた。───車の窓は樹脂が埋め込まれていて簡単には割れない。しかしもしこれが窓ガラスだったなら間違いなく砕けていた。そんな力で篤志は窓を叩いた。
歯を食いしばり、祈り願うように、篤志は胸の内で叫んだ。
(櫻───!)
一条和成が海岸線に降りたとき、既に雨脚は遠くなりつつあった。
陽は完全に落ち、20名ほどの救助隊員がサーチライトが流れるなかを慌ただしく動き回っていた。相変わらず風は強く、波が高い。捜索活動は難航しているようだった。崖の上に警察がいるのだろう、無線のやりとりが聞こえてくる。岩場の一角では火が焚かれ、休憩中の隊員が暖をとっていた。
波打ち際、不安定な岩場に立つ篤志を見つけた。白いタオルを肩に掛け、睨むように海へ目を向けている。暗闇の中、時々サーチライトが横顔に当たる。その顔はどこか急くように───櫻が早く見つかって欲しいと願う表情だった。
(純粋に櫻の無事を願っているのは彼だけかもしれないな)
と、和成は思った。勿論、和成だって櫻が心配だ。早く見つかって、無事であることに安堵させて欲しい。多分、まだ実感が湧かないのだ。あの櫻がこんな事故に遭うとは思えない、こんな風にいなくなるなんてあるはずない。司も同じだろう。真木のように責任者ではなく、史緒のように加害者(自称)ではない和成や司は、篤志が抱えているであろう不安───櫻がいなくなるとは、想像できないでいるのだ。
篤志は背後に近づく和成に気付いた。
「あんたは史緒についててくれ」
海を睨んだまま言う。和成になど構っていられないとでも言う様に。
「手を退けと言ったのは君だろう」
和成は低く呟いたが篤志はこれを無視した。
「史緒はどうしてる?」
「…“櫻を殺したのは自分だ”と、繰り返しています」
「そうか」
「何があったんですか」
「一条さん」
「はい」
「史緒のところに戻ってくれ」
「篤志くんは?」
そう尋ねると、篤志は顔を上げて黒い海を睨んだ。まだ、櫻は見つかっていない。
「ここにいる」
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