/GM/七日月
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「外、見て」
 3回目のベルで受話器を取ると、相手の開口一番は名乗りもしなかった。
 たった一言、意味の分からない、というより意図の分からない一言。それを聞いて、A.Co.の所長である阿達史緒は対応すべき言葉を忘れた。
「……え?」
 マニュアル通りの電話対応も忘れ、史緒はやっとそれだけを返す。
 “失礼ですがどちら様でしょうか”、“こちらA.Co.です。ご用件をどうぞ”。
 …ビジネスマナーとしてお約束の返答はいくらでもあったのに。
 あまりの反常識的な態度にすぐに反応できないのは、型通りの常識しか身に付けてない修行不足のせいだろうか。
 しかしそれ以前に、彼女が巧いフォローもせず、こんな失態に甘んじたのは電話の相手の名前を知っているからだけど。
「藤子なの? ……一体なに?」
「いいから。西の空」
 突発的で物事を順序立てて伝えようとしないのは、國枝藤子にすればいつものことだ。
 有無を言わせない口調に、史緒は仕方なく有線電話のケーブルを引っ張って窓際に近づく。受話器を肩と頬で抑えたまま、ブラインドを引いて窓を開けた。生温い風が流れてきた。
 もう外は暗い。日没直後らしく、空はほんの少しの明るさだけを残していた、ネオンの明るさが建物の輪郭を教えてくれる。暗闇になることのない街に夜が訪れる。
 史緒は半ば儀礼的に西の空を見て、藤子に聞こえない程度に軽く息をついた。
「何なの?」
「月」
「……」
 もう一度、史緒は窓の外を見た。
 西の空。少しの明るさを残した空に。
 まだ低い位置に七日月。
「キレイだね」
「────」
 凛と耀く欠けた月。
 史緒は空を見上げ、それに見入った。
「………そうね」
 かなり遅れて、呟いた。
 だからなに? そんな応え方をしても、藤子は怒らなかったはずだ。でも、史緒は藤子の言葉を素直に受け取った。素直に頷いた。
「けどさぁ、反射板ってあるでしょ? 自転車の車輪とか道路の標識やセンターラインにあるやつ。あれって月の光と同じ原理じゃない? そう考えるとロマンもへったくれも無いね」
 史緒は吹き出した。
「それじゃあ、ぶち壊しだわ」
 史緒は時間を確認する為に、室内の壁時計に目をやった。
 もうすぐ7時になる。
 窓のほうへ視線を戻すと、やっぱり月が見えた。ふと、藤子と2人、別の場所で同じ月を見ながら電話していることに気付き微笑う。
「今、どこにいるの?」
「東京タワーに来てるよん」
 えっ、と少しばかり驚いて窓の外に目を向けると、ライトアップされた東京タワーがはっきりと望める。史緒は笑った。
「なんだ、そんなに近くに来てるなら呼び出してくれればいいのに」
「史緒ったら。あたしがこんなデートスポットに一人で来てるわけないでしょ」
 ったくもー、野暮なんだから。含み笑いと共に付け加える。
 史緒はふと思い立ち、
「そっか。北田さんが一緒なんだ」
 と、納得した。
「あたり」
 晴ちゃん、史緒なんだけど、なんか喋る? と、小さく聞こえる。すぐに声の遠近感が戻って、
「あ、史緒ー? 晴ちゃんから。“こんばんわ”だって。それだけ。もー、そっけないんだから」
 と、言う。
「彼らしいよ」
 そう口にした後で、史緒は、藤子のほうがよく知っている人物についてこの言い方は失礼かもしれないと考えたが、藤子は特に気にしていない様子だった。
「話変わるけど。この間の会合、行けなくてごめん。いくら仕事だったとはいえ、由眞さんにも注意されちゃった。あの2人も、怒ってたでしょ」
「まぁね」
「ていうか、あの2人はあたしと会いたくないだろうから喜んでたかな?」
「藤子」
「いじわるな質問でした。ごめん。とにかくこの電話の主旨は、月のことなわけ。もし仕事中だったなら邪魔して重ね重ねごめんなさい。あ、そーだ。今度いつ会える?」
「同じこと訊こうと思ってた」
「あははは。んじゃ、また連絡するよ」
「わかったわ。北田さんにもよろしく伝えて」
「はーい。晴ちゃん、史緒がよろしくだって。史緒ぉ? 伝えたよー」
「はいはい。それじゃ、また」
「じゃねっ」
 電話を切ってからもう一度、史緒は暗い夜を仰いだ。
 街の光の遥か高みに小さく輝く、七日月。
 史緒は口の端で笑った。
(………気付かなかったな)
 一度、窓の外を見たはずなのに。藤子に言われるまで気付かなかった。
 月の存在なんて。
 今はこんなにもはっきりと望める。
 そこにあるはずのものが視界に入らないのも。気にかけられないのも。
「…私らしい、か」
 風が冷たくなってきた。
 少しの未練を残した視線を空に送って、史緒は窓を閉めた。

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