キ/GM/お題068 前5/5次
「いっつもへらへら笑っててさぁ。最初はむかついたけど、でも、あれが地なんだよな」
「そう──」
サクマとの掛け合いの合間、そこで史緒は表情を崩して笑った。ややあって視線を移す。写真に写る藤子を見て、眩しそうに目を細めた。
「楽しかった、んでしょうね」
過去を思い出したのか、史緒の声は遠くを向いている。その横顔は写真の中の藤子へ笑いかけているようだった。
「…楽しい?」
紫苑が聞くと史緒は顔を上げた。気づいてないのだろうが、少し目が赤い。
「私の主観ですけど…、ええ、やっぱり楽しんでいたんだと思います」
「なにに?」
「生きることに」
声にも言葉にも迷い無く史緒は即答した。
「不満や悩みをこぼすことはあってもあの子は笑ってました。むしろ、それ自体を楽しんでいるような。自分の生活を、生き方を、楽しくしようとしていた。得られないことでさえ楽しんでいた、満足しようとしていた……、今、思うとそういうことなのかもしれません」
(あぁ──)
ようやく記憶と一致するものを見つけて、紫苑は過去を思い返す。
あれはいつだったか。
藤子と再会する前。
由眞と出会う前。
3人で走った夜より前。
ほとんどかすれた遠い日の記憶。
天気の良い昼下がり。青く晴れ渡る空。心地よい温かな空気。公園ではしゃぐ子供たち。
その中に紫苑と藤子はいた。
青い空に引かれた白い線に子供たちは声を上げる。
空を見上げ手を伸ばす。──ひこうき雲へ。
でも。
あいつは手を伸ばさなかった。
見上げて、自分の立ち位置を確認して、届かないことを楽しみ、それに満足するように。
欲しがらない人間はいる。紫苑にとってそれは「馬鹿」だけど、そういう人間がいることは理解できる。藤子もそのうちの一人。
多くを望まない。それも処世術のひとつだろう。
離れていた間、遠い地でどんな生活だったかは聞きたくもない。でも、ここでの生活と掛け離れていたことは明白。
白と黒。光と影。足元が崩れるような、恐ろしいまでの日常のギャップ。たとえこの安息の地でも、身体に染み付いた習慣はすぐには消せない。その「ずれ」に、どうやって耐えたのだろう。たった一人で。由眞の前で笑いながら。
多くを望まなかった。楽しく生きようとしていた。満足しようとしていた。
そうやって生きながらも、出会ったもの。手に入れたもの。手を伸ばしたもの。
− この手紙のこと、思い出したらでいいの。
− 確かめてきて。 あたしの友達のこと。
− あたしのことを忘れて、ちゃんと笑ってくれているかどうか。
(……ばからし)
藤子の心配は的外れもいいとこだ。
(ほんと、ばか)
紫苑は溜め息を吐く。その息は多くの意味を持っていたけど、大きくはない。
でもそれだけで、体が軽くなった気がした。
「史緒」
「はい?」
「ありがと。もういいや」
紫苑は踵を返し壁から離れる。振り返りもせずカウンターのほうへと足を進めた。
「紫苑さん?」
「なんか飲も〜。今回は面倒掛けたし、おごるよ?」
かつて一人置き去りにされたときの、藤子への感情をなんというのだろう。
家族3人で走って逃げた夜。父は藤子だけを連れて行った。独り、置き去りにされて。
妬み、恨み、羨み。
それらに支配され、出来上がったのはこの性格の悪さ。自覚はある。美しい方程式のよう。
そしてまた、今、藤子に対して嫉妬に近い感情があった。
でも、前とは違う。自分の中でうまく付き合っていけるものだ。
素直に、捻くれない気持ちで羨ましいと思う。
少しのものだけを望み、それを手に入れて、最期まで手放さずにいられたこと。
「ね〜、史緒」
「はい?」
カウンターの中のリテと話しているところを割り込んでも、隣に座る史緒は何の気負いも嫌味もなく目を向けてくる。──並んで座ったものの、紫苑が一人考え込んでしまったので、わざと放っておいてくれたようだ。(同伴女性を放置するなんて最低だって? そんな気遣いは由眞さんにだけで十分だ)
史緒はまっすぐにこちらを見ている。その顔を覗き込むように、
「友達ごっこしようか」
紫苑がそう言うと、史緒はひとつ瞬きしてから、
「──っ」
息を詰め、顔を強張らせた。
(あれ)
予想していた反応と違う。ここは笑うところ。
さらに史緒だけでなく、カウンターの中にいたリテも驚いたように目を見開いていた。しかし、ふっと声を立てて口端をもたげる。少しだけ憂いの残る笑みだった。
──かつてこの席で、藤子が史緒に同じ科白を言ったことを、紫苑は当然知らなかった。リテは知っていた。この場所で同じように、若い2人の少女の不器用で不細工な会話を聞いていたのだから。
「友達…ごっこ?」
史緒が復唱する。
「そう。あ、別に“友達からはじめましょう”とかそういうのじゃないから。本当に友達。俺が添い遂げたいのは由眞さんだけだから」
「は?」
「あ、詳しく聞きたい?」
「……桐生院さんのくだりは必要ありません」
「なんだ。ノロケられると思ったのに。──で? なんだっけ?」
「友達ごっこの意図…」
「そうそう、それそれ。俺も考えるわけだ、将来のこと。あと何年、由眞さんと一緒にいられるかなって。10年…、20年は無理かな。ともかく由眞さんが死んだとき慰めてくれる友達が欲しくて」
「えっ、…ちょっと待って、そんな縁起でも無い…」
「そうやって目を逸らしてたって、いずれ確実に来る未来じゃん。未来のことを思うのは前向きだと思わない?」
「それは流石に屁理屈だと思います」
「俺は絶対、由眞さんより先に死なない。由眞さんが悲しむから。俺は由眞さんの死に際を絶対見届けなきゃいけないんだ」
夫も息子も孫も失ったあの人のために。
それは本当に辛いことだと解っているから、ずっと先になればなるほどいいけど、絶対にある未来だから。
「由眞さんが亡くなったら一番悲しむのは俺だし。あ、史緒は3位以下だから」
「…2位は誰なんです?」
「六紗」
「りさ?」
「いるんだよ、そういうやつが。会ったことない?」
「ちょっと思い当たる人がいないんですけど…。いっそのこと、その人に慰めてもらったらいいじゃないですか」
「おぞましいこと言わないで」
本当におぞましかったので真剣に抗議すると、史緒は笑った。真剣な抗議なのに。
「で、どう? この提案」
「友達ごっこはやめておきます」
「わぁ、傷つくぅ〜」
まぁ、断られることも予想していなかったわけじゃない。「友達をスタートする」ことを好しとしないタイプかもしれないし、単純に紫苑が嫌いなのかもしれない。
史緒は少し笑ったが、表情を改めて言った。
「“ごっこ”はもうこりごりです。そうじゃなければ、いいですよ?」
* * *
史緒は少しの疲労を感じていた。微かな開放感もあった。
夕方、事務所に現れた紫苑。誰かを思い出させる言動。知らなかった藤子の過去。紫苑、由眞の関係。
たった一日が嵐のよう。
久しぶりにリテの店に行って、久しぶりに藤子の顔を見て。
紫苑と話すことで気持ちが整理できた気もする。──その紫苑も、口には出さないが色々と思うところがあったようだ。
リテが「また来てね」と言って、紫苑は笑って手を振っていたけど。
おそらく、紫苑は二度とあの店に行かないだろう。藤子の写真がある、あの店には。
タクシーが史緒の自宅前に着いたとき、ぶり返す記憶に、思わず篤志がいないか辺りを確認してしまった。似たようなシチュエーションが、ずっと昔にあった。それを思い出して史緒は苦笑する。
「送ってくださってありがとうございました」
降りてから振り返ると、車中の紫苑が子供のように言う。
「送ってくれたのは運転手さんだよ」
今度は史緒だけでなく運転手も笑った。
「──あ、そうだ。史緒、ひとつ訊きたかったんだけど」
「はい、なんでしょう?」
「史緒ってお兄さんいる?」
「え? あ、はい」
「ハルって名前?」
「…? いいえ?」
「ふーん。気のせいか。じゃ、いいや。またね」
ドアが閉まって、タクシーは暗い夜道に消えた。タクシーの中の紫苑のお喋りから一転静かになって寂しさが残る。
「………あれ?」
一人残された史緒は、小さな違和感、わずかに引っかかるものを感じた。もどかしいほど頭が働かず、史緒が違和感の原因に気づくまで時間が必要だった。
「えっ、なんで!?」
夜道を振り返るがもう遅い。タクシーのテールランプはもう見えなかった。
end
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