/薬姫/壱
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 医王・矢矧義経(やはぎよしつね)。
 彼の名声は、20歳代後半から、臨床薬理学会において、自らの研究成果を発表、数々の表彰を受けたことから始る。元々、独国の大学で研究員をしていた矢矧は、仕事以外でも製薬の研究を行っており、帰国後に日本でそれを発表したのだ。独国は矢矧を契約違反だと非難したが、半年後にはそれを撤回した。矢矧の頭脳を裁判に煩わせる医療的損失は計り知れないものになると、日独が合意したからだった。
 矢矧は帰国後、一人の薬理学者と出会う。それは国薬連の名も無い会員の一人だったが、二人は研究理念において深く意気投合し、共に研究を行うようになった。新薬の開発や既存薬の改善、副作用による医療事故の見直し。たった数年で数々の偉業を成し遂げた矢矧に、世間は異名を与えた。
 「医王」。
 医王とは仏教で仏(薬師如来)を意味する。医者が病人を救うように、仏が人々を救うことからの喩である。
 その大層な異名を受けた当人は鼻で笑っていた。そんなものは関係無いとでも言うように、矢矧は次々に斬新な成果を学会に提出していった。矢矧は時間を惜しむように研究に没頭していた。
 30歳になった矢矧はひとつの研究室を任された。が、彼は少々ワンマン過ぎるきらいがあり、周囲の無能さを嘆き、それを辛辣な言葉で公言して憚らなかったので、他の研究員らと衝突が絶えなかった。そのいざこざが起こる度に、相棒である薬理学者が間に立ち、双方を収めていた。この薬理学者は、一般研究員からは尊敬されており、矢矧からは「無能ではない」と高く評価されていたので、この人物に間に入られると矢矧も研究員も引くしかなかったのだ。
 この薬理学者は矢矧と同様に優秀な化学者だった。加えて温厚な性格と鋭敏な感性。仕事は誰よりも熱心で、探究心旺盛、化学者としての直感的な理論の組立や閃きに富み、矢矧からも信頼されていた。矢矧の才能を妬むことも臆することも無く素直に認め、常に矢矧を助け、共に高め合ってきた。
 しかし2年後。矢矧は相棒を失う。
 薬理学者が殺された。薬殺だった。
 矢矧は、泣き伏したという。
 そして数ヶ月後。
 矢矧義経は世間から姿を消した。




 重要な役割を果たしていた矢矧研究室の中核を成す2人が消え、学会は騒然となった。
 矢矧に心酔していた善良な一部の研究員たちは同情の念を惜しまない。「矢矧は信頼していた相棒を奇しくも薬殺という形で失い、自らを嘆いたのだろう」
 しかしごく少数のあまり善良でない者たちは以前から気づいていた。
 優秀な頭脳は狂気を孕んでいたことを。


 薬には2種類の意味があることは誰でも知っている。
 病気や怪我を治療したり、健康や生命の保持・増進に役立てることが目的の医療薬。
 それから、殺虫剤、農薬など、主としてその毒性を目的に、生物体に作用させる毒性剤。
 やっかいなことは、それら2種類の区別が必ずしも明確ではないことだ。
 例えば、「阿片」。これは太古の昔から万能薬として使われていた。鎮痛、鎮静、呼吸抑制など、うまく使えばこれほど有効な薬はない。阿片の主成分であるモルヒネは現在も医療現場で多く使われている。
 ところが水パイプで吸煙すると、フワフワしたような、夢を見ているような幸せな陶酔感が得られる。これが中毒へ導く原因であり、繰り返し吸煙していると依存性が生じてやめられなくなる。
 表裏一体。紙一重。
 そんな危うさので、ヒトは薬を服用しているのだ。
 そして表裏のうち、「裏」を生業とする者もいる。
 とある起業家が矢矧義経に話を持ちかけた。
 地下研究施設と設備、人員をあてがうと。
 表向きは小規模の薬品製造会社。実際、全体の4割は医薬品の新薬研究開発を行っており、実際、世間にも名が通っている。しかし残り6割は、人体に悪影響を与え、しかも非合法に需要のある製薬を行っていた。つまり、麻薬や毒劇物だ。
 矢矧に話を持ちかけた起業家はすでに販売ルート(パイプライン)をいくつか確保しており、その筋にとって、この起業家と矢矧の提携は衝撃的なニュースとなった。
 警察や厚生省の一部の役人は、ダークサイドの不穏な動きを捉えてもどうすることもできなかった。起業家の販売ルートは既に深部にまで到達しており、彼らを摘発すれば歪みが生じ、新たな火種を産むことは必至。余計な抗争を招くよりは現状維持を、という保守層の選択の結果だった。

 約半数の関係者は事態を悟り、戦慄く。
 矢矧義経は良心から医薬開発をするような人格ではなかった。その頭脳を用い、好奇心を満足させる手段なら何でも厭わない。そんな良くも悪くも化学者根性を持った人間だった。
 今は高校生や中年サラリーマンでも合法ドラッグに手をつける時代だ。ちなみに合法ドラッグとは、法的に認められているという意味ではない。取り締まる法がないという意味である。
 海外から供給するしかない現状だから、これだけの被害で済んでいるというのに、麻薬が国内生産されるようになってしまったら、どんな未来が待っているというのだろう。


 そう、医王・矢矧義経の伝説はここから始る。
 矢矧は毒に手を染めた。


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