/薬姫/壱
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■ 1.

 矢矧には2人の「姫」がいる。
 それは80名を越える所員全員が知る事実だ。
 所員の中には、矢矧のことを影で「医王」と呼び、「姫」の存在を皮肉る者が少なからずいた。
「矢矧は薬師如来を気取りたいのさ」
 薬師如来は2人の脇士を従えている。
 日光と月光。
 矢矧の2人の「姫」のうち、どちらをどう当てはめるかは個々それぞれだったが、この揶揄は当人以外の所員全員に通じる。矢矧はもしかしたら誰からか噂で聞き、それを面白がっているかもしれない。元来、化学者なんて人種が信仰する宗教は「科学」だけで、特定の神を崇める化学者など聞いたこともない。だから薬師如来などという仏の意義を正しく捉えている者など、おそらくいないだろう。
 それでも医王・矢矧義経の両脇に控える彼女らは象徴的で、2人とも一風変わった才媛だったので、所員らの間では良い意味でも悪い意味でも噂の的だった。



 一人は、わずか8歳の少女「薫」。
「フェーズ1の目処が立たないなら私がやる。書類をまとめておけ」
 室内をテキパキと小気味よく動く小さな人影がある。
 偽りでは無く、薫は本当に8歳の子供だ。平均年齢34歳のこの所内において、当然、最年少。その薫は自分の年齢など物ともせず、ひとつの班の長にあり、黙々と仕事をこなし、テキパキと周囲に指示を出す。所員の中には「子供に上司面されるなんて」と敬遠する輩もいるが、同じ班の研究員たちは、薫の、年齢にごまかされない実力を知り、心から認めていた。
 それでも当然のことながら外見は小さな女の子で、140cm弱の身長に、肩の上で切りそろえられている褐色の髪。成熟にはほど遠い体つきで、小さな手は器用に実験器具を扱う。ときにそれは、周囲の目に危なっかしく映る。薫は一丁前に白衣を着こみ、どういうわけかそれが板についていた。
「フェーズ1の目処が立たないなら私がやる。書類をまとめておけ」
「ちょ…っ、馬鹿言うな、薫っ」
「1005番は私がつくった薬だ。新薬治験志願者が現れないなら、責任を取れるのは私しかいない」
 大の大人を蹴散らす命令口調は矢矧の影響らしい。それは決して、大人ぶっているわけではなく、薫には見識と分別が備わっており、さらに子供とは思えない程の知識量を持っていたので、そんな口調が身に付いてしまったのも仕方ないと言える。
 薫は、かつての矢矧の相棒・「芳野博士」の一人娘だった。矢矧と芳野がまだ表舞台で活躍していた頃、芳野は母親のいない薫を矢矧の研究室によく連れてきていたらしい。
「芳野から聞いた話じゃ、初めて口にした言葉らしい単語が『H(水素)』だったらしい。あいつが死んだ時、薫は4歳だったけど、化学式扱うより日本語喋るほうが不自由だったもんなぁ」
 と、矢矧がその異才ぶりを語ったことがある。
 その、当時4歳である相棒の娘を引き取り、矢矧は世間から隠れるように、ここに拠点を移した。はじめのうち薫は矢矧の仕事を参観しているだけだったが、3年後、薫は実務に就くようになって、さらに1年が経過した。その間、薫はずっとこの地下研究所で暮らしている。
「本当は治験志願者なんていらない、薬効は保証できるんだ」
 白衣の裾をひるがえし、悔しそうに爪を噛む。臨床試験の志願者が現れず、研究が進まないことに薫は苛立っている。早く結果を出すためなら、自分が薬を飲む。薫はそう言っているのだ。
 班員のひとりが声を荒げた。
「そういう問題じゃない! 自惚れるのも大概にしろ」
 他のひとりがフォローに入る。
「正規の開発手順を踏めない研究者は優秀とは言えませんよ」
「そうだそうだっ。臨床試験の対象は成人健常者だってことくらい知ってるだろ! いくら作ったのが薫だからって、治験やるなんて、15年早ぇ」
「そうですよ。GCPにも引っかかります。それに、矢矧さんはその1005番の臨床試験より先に、998番のほう、早く仕上げろって言ってましたよ」
 急いでいるのは薫だけだ、と言外に匂わせて説得を試みる。矢矧の名を出せば少しはおとなしくなるだろうと踏んだのだが薫は鼻で笑う。
「998番なんてあんな毒性の強いもの、実際ヒトに使うわけないのに、何のために作るんだ? 自己満足したいだけなら、矢矧も人の上に立つのには向いてないな」
 腕を組んで吐き捨てるように言った。何のために作るんだ? という薫のセリフに、班員たちは気まずくなってうつむいたり、言葉を濁したり、わざとらしく宥めたりする。
 彼らは、矢矧が薫に作らせた毒性の強い薬を何に使うのか、よく知っていた。矢矧による無言の口止めがあるので薫に言うことはできない。薫に事実を言えないのは良心が痛むが、矢矧を裏切ればどうなるかも、全員がよく知っていた。
 薫は大人顔負けの頭脳と知識を持っている。それらに付随する道徳や倫理観もある。しかし彼女は現在8歳で、4年前から外へ出たことがない。幸か不幸か、薫が興味を持つ仕事は所内にあるので不自由を感じていないようだが、一般の人間が持つ善悪と関わる経験が絶対的に少ない。
 そして何より、純粋な悪意が存在することを、薫は知らない。矢矧が実際行っていることを理解できないのは仕方ないと言える。
 化学式を操りパズル感覚で仕事をこなす薫には、毎日が手応えを感じる充実した日々だった。


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