キ/薬姫/壱
≪3/13≫
もう一人の姫は柳井恵。18歳。
恵はいつも「ひつじ」という名の熊のぬいぐるみを抱いている。
長い髪をふたつ三つ編みにして、いつも白い作業服と白いスニーカーで、ひつじをギュッと抱きしめ、背中を丸めて歩く。その姿はかなり異様で、薫とはまた別の意味で目立つ人物だった。
時々、怯えているような挙動不審な態度。機嫌が良いときはへらへらした笑顔で明るく喋るが、下手に話しかけると突然怒りだし大声を出す。日にもよるが、ひつじを胸に抱きしめたまま、薄ら笑いでぶつぶつと何やら呟き、床に座り込んでいることもある。不気味だ。そう評した職員がいるが、きっと正しいだろう。
その日、恵は所内の食堂で、ひとり端の席に座り、買い込んだパンを黙々と食べていた。そのパンを少しちぎり、いつも一緒にいるひつじの口に添えたりしている。足をぷらぷらとさせ、外見はハイティーンなのに、その様子はまるで小さな子供だった。
「恵、またキズ増えてないか?」
後ろから他の職員数人が覗き込む。
白いツナギの袖をまくった恵の左手首には無数の傷があり、それについて職員は言ったのだ。一際、赤く、生々しい傷がある。その様子がまだ新しいものだと語っていた。
「んー? うん。昨日」
恵はケラケラと笑いながら答える。
「おい、またかぁ?」
「矢矧さんに怒られるよ?」
「もー怒られた。でもね? クセなんだもん」
「は?」
「だって切るとね、プチプチするのよ。血管とかね。おもしろいよ? ヒフの断面とか観察したいんだけど、血が溢れてきちゃうから見えないの。綺麗な色でぞくぞくする。それに、それにねっ? 切ったところから、体のなかの汚いものがみんな出ていくの。体のなかが綺麗になる。すごく気持ちいいの」
頬を染め、ワクワクしながら嬉々として説明する恵の台詞に、
「やめろー!」
と周囲が耳を塞いで悶える。背筋が寒くなる話だ。
「ホントホント。ナイフ見る? お気に入り」
さらに説明を続けようとする恵を周囲は押しとどめる。その反応が不服なのか、恵はぷんと顔を背けてしまった。
自殺志望者ではない。恵はリストカット症候群だった。
左手の白い手首に残る傷はすべて躊躇い傷であるし、本人が死にたい程、悩んでいる姿も見たことがない。恵も薫と同様、所内で暮らしているが、どうやら夜、自室で手首を切っているらしいのだ。古いものはもう数年前になる。
「やっぱ、おかしいよ、あの子」
「何をいまさら」
「恵の部屋って、壁に血文字が書かれてるんだって。噂だけど」
「マジか? 気持ちわりぃ〜」
通りがかりの職員が本人に聞こえる声量でおぞましそうに口にしたが、恵は背中を向けたまま、相変わらずひつじに食べものを与えたり話しかけたりしていた。幸せそうに笑いながら。
柳井恵は、5年前まで普通の学生だった。両親がいて、友達がいた。
何が原因だったかは知らない。ある日、一家心中が行われ、恵はそれに巻き込まれた。毒だった。
病院に運び込まれた時、息をしていたのは恵だけで夫妻は死亡していた。偶然その病院が矢矧研究室の近所だったために、その筋の専門ということで矢矧と芳野が呼ばれた。
5日間、恵はベッドの上で一睡もしなかった。瞳孔はまばたきを忘れるまで開き切り、喉は干からびるまで萎れ、暴れるあまり全身に擦過傷ができた。拘束具を付けられたが今度はベッドごと床に倒れた。ようやく眠りについたとき、恵の体重は10キロ以上減少していた。
そして7日後に目を覚ましたとき、恵は精神に異常を来していた。
薬の毒性が神経を冒したんじゃない。
毒と闘い、もがき、髪をちぎり取り、絶叫して苦しみ抜いた5日間が、精神を蝕んだのだ。
毒に勝利した代償だった。
「恵こそが、現代のラスプーチンだね」
と、矢矧は笑う。
以降、矢矧と芳野に引き取られた恵は、そこで4歳の薫と出会う。芳野が死んで、恵もまた矢矧に連れられて、ここへやってきた。
恵は自分を冒した毒薬に興味を持ち始め、自ら学ぶようになった。薫ほどの能力は無いが、薬の目利きや調剤、実験などできるくらいの知識はある。しかし、他職員と会話が成り立たないことが多く、その知識はあまり実務に用いられていない。それでも薫と同様、恵はひとつの班を仕切る役職を与えられていた。
* * *
この研究所で働く職員は皆、何かしら覚悟を決めた人間達だ。
矢矧、恵、薫、と同じ初期メンバーの数十名は、学会で注目されていた矢矧を尊敬し盲目的についてきた者たちだ。他は世捨て化学者や、現代社会に恨みを持つ者、興味が無い者、単に「薬」という儀仗を手にしたい者などそれぞれ。そして全員が、「ヒトを傷つけられない」という良心を捨ててまで、ここに居たい理由、もしくは事情を持つ者たちだった。
この研究所は、起業家が持つ工場の地下にあり、B1からB3に80名ほどの職員が働いている。当然、窓は無く日の光が入る余地はない。宿泊部屋もあり、幾人かの職員はこの地下に定住しているが、全く外に出ないのは矢矧と恵と薫だけだ。その通り、太陽の下を歩けない業種なわけだが、よく気が狂わないものだと、職員達は冷やかしていた。
「あの姫さんたちは、矢矧の最大の武器だね。もしくは道具(ツール)でもいい」
と、ある者は言う。
「薫は芳野博士の一人娘。生まれたときからその知識を叩き込まれた英才教育の天才少女」
薫はひとつの化学反応について考えない。「考える」より先に理解している。呼吸と同じように、すんなり、自然にそれを受け止め消化することができる。もちろん、下地となる知識があるからだが、この存在は貴重だった。
一度の試験に1週間もかかり何百万円もする調剤シミュレーションソフトを買って、それを動かす高いパフォーマンスのマシンを用意するより、薫一人の頭脳のほうがはるかに効率が良い。それは頭脳というより、ひとつの感性だ。公式通りの化学式ではなく、その自然現象を見抜く目がある。まさしく薬師如来の申し子、浄瑠璃姫だ。
「恵のほうは死にかけてからは、毒素に対する耐性がついたみたいで、どんな薬も効かないってさ。その免疫力を調べるって、矢矧にモルモットみたいに扱われてたこともあった」
どんな毒素にも耐性がある、という恵は、誰より冷静に「毒」を作ることができる。指先で操るものにビクビクする必要はないからだ。普段、まったく仕事をしない恵を侮っている職員は多いが、それは大きな間違いだ。
医王・矢矧義経は、自らの両脇に強い武器を携えていた。
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キ/薬姫/壱