/薬姫/壱
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■ 2.

 ある朝、恵の自室に2人の男が現れた。
 恵の部屋の鍵を持つのは、恵を除けば矢矧一人。それなのに黒い服を着た見知らぬ男が現れ、恵は狼狽えた。ベッドの上に座っていた恵は咄嗟にひつじを抱きしめる。
 男2人は恵には見向きせず、視線を散らしていた。何かを探しているようだった。
「おい、あれだ」
 一人が言う。2人して恵のほうを向いた。恵はビクッと肩をすくませた。
 男は恵のすぐ目の前まで近寄り、腕を伸ばす。
「!」
 ベッドの枕元にはナイフが置かれていた。刃渡り20センチほどの両刃だ。柄の部分は金色で西洋的な細工が施してあり、鍔は刃にそって長方形をしている。古風なペーパーナイフを大きくしたようなデザインで、ナイフというより剣に近い。このナイフは恵のお気に入りで、恵が自分の手首を切っているナイフだった。男はそれを取り上げた。
「え」
 恵は男の腕を掴む。
「…ゃ、どうして?」
 振りほどこうとする男に必死でしがみついた。
「離せ」
 そういわれても譲るわけにはいかなかった。恵は泣きそうな声で言った。
「やだ…ねえ。どうして? どうして持ってっちゃうの? それ、アタシのだよ?」
 手を伸ばしてナイフを奪い返そうとするが、リーチの長さに敵わない。
「アタシのだよ? 返して…、返してっ!」
 煩わしそうに男は言った。
「矢矧さんの命令だ」
 え? ぽかん、と恵はしばし呆然とする。
「うそ。ヤハギがそんなこと言うはずない」
 ムキになって男を睨む。しかし男たちは冷静に見返すだけだった。恵は弱気になった。
 確かに、矢矧しか持たない鍵を持ち、この男たちはこの部屋に踏み込んできた。
 怒りが込み上げる。
「…っ。───ヤハギっ!!」
 怒声をあげて、踵を返す。恵は裸足で部屋を飛び出した。ひつじを抱きしめたまま走る。
 窓が無い廊下を走り抜けて、息を削りながら、今度は階段を昇る。この階段を急いで駆け上がるとき、踊り場の切り返しで三つ編みが手摺りを叩くのはいつものことで、やっぱり今回も軽く音を立ててぶつかり、昇って、恵は目的の場所へたどり着いた。
「ヤハギっ!」
 ノックも無しに、部屋のドアを開ける。ドアには「所長室」と書かれていた。
 しかし室内に人影は無かった。気配すら無い。
「…っ」
 恵は無性に苛立って、乱暴にドアを閉める。今度は廊下の奥へ進んだ。
 そこは、日常、職員が働いている研究棟で、長い廊下に各班の部屋が並んでいる。班はぜんぶで13あって、恵の所属する9班は左側の奥から2番目にある。今日は思い切りのよい遅刻だが、恵がいなくても9班の仕事に支障は無い。
 ほとんどがそれぞれの部屋に籠もっているため、廊下に人通りは少ない。恵はその長い廊下を睨んで仁王立ちした。
 すぅ、と大きく息を吸う。
「ヤハギ───っ!!」
 高い大声が廊下に響き渡った。ビブラート無しのハイ・キーは気持ちよいほど突き抜けて、エコーが残る。
 さらに恵は叫んだ。
「ヤハギ、どこっ? ヤハギ…!」
 廊下に面するいくつかのドアが開いて、何事かと職員たちが顔を出した。しかしそのなかに恵の探している人物はいない。
「ヤハギ…っ」
「こら、待て」
 やっと追いついてきた黒服の男2人。そのうちの片方が恵の肩を掴んだ。
「さわらないでッ!」すぐにその手を払う。
 喉が千切れたんじゃないかと思うような悲鳴だった。ひつじを抱きしめて、肩で息をして、睨み、男を威嚇する。どうやら恵の逆鱗に触れてしまったようだ。
 こうなるともう手が付けられない。男達は少し動揺した様子で一歩退いた。
 そのとき。
「うるさいよ、お姫さん」
 1班の部屋から眼鏡をかけた背の高い男が出てきた。ワイシャツの上から白衣をひっかけて、目にかかる長い前髪を無造作に掻き上げる。格好はそこらの職員と大差ないが、ここで働く職員は全員、彼に頭が上がらない。彼が矢矧義経だった。
「ヤハギ」
 恵はぱっと威嚇を解いて、矢矧に駆け寄った。
「どうしてアタシからアレ取り上げるの? どうして?」
「“アレ”?」
「あのふたり、ドロボーに来たんだよっ?」
 びしっ、と恵は背後を指さした。
「…あぁ」
 矢矧は恵の後ろに立つ2人の男を一瞥して、納得した様子で首の後ろを右手で掻いた。
「どうして!?」
 睨みを利かせてすがりついてくる恵の頭を、矢矧は優しく撫でた。
「恵。気持ちいいのは解るけど、そろそろ癖、直せ」
 そう言って矢矧は恵の左腕を取る。袖をまくると、白い肌に赤い線がいくつも引かれていた。恵はだからなに?というような視線を返した。赤い切り傷を、矢矧は指でなぞる。
「ほら、成長期も過ぎたから傷が治りにくくなってる。夏場に半袖着れなくなるぞ」
「そんなの気にしない!」
「他の職員に影響が出る。最近、切る回数増えてるみたいだし、取り上げておく。おまえの為だよ」
「ヤハギ…」
 声の勢いは収まったものの、恵はまだ何か言いたそうだ。矢矧は淡々とした声で続けた。
「それから、最近、不安定なようだから、恵に護衛をつけるよ。彼らがそうだ。あまり邪険にしないように」
「───もぉいいよっ」
 恵は怒った素振りを見せて矢矧から離れる。背を向け、背筋を伸ばした。息を吸う。するとまた、長い廊下に向かって叫んだ。
「カオル───ッ!」
 2度目の大音声が響き渡る。
「カ…」
 もう一度呼ぼうとしたとき、バタンッと右側手前から3番目のドアが開いた。そこから小さい人影───薫が出てきて、恨みが込められた視線で歩いてくる。小さな体に妙な威圧感。
 しかしそんなことをまったく気にとめない恵は、
「あれ、カオル、おでこが赤くなってるよー?」
「…恵が馬鹿でかい声で呼ぶから、顕微鏡に額をぶつけたんだ!」
「ありゃ、おきのどくー」
 絶対、発言通りの感情は抱いてないだろうと思わせる様子でへらへらと笑う。薫は恵と、ついでに矢矧も睨み付けた。
「おまえらがじゃれ合うのは構わないが私を巻き込むな」
 矢矧にこんな口を利けるのは間違いなく薫だけだ。というより、これはすでに8歳の子供の発言ではない。
「ほら恵。薫を怒らせちゃったよ」
 と矢矧が言うと、恵はぱん、と手のひらを叩いた。
「そう! 大事(だいじ)なんだよォ!」
「どんな大事(おおごと)でも、5分以上は聞かないからな」
 薫が念を押すと、恵は歯を見せてにかっと笑った。
「あのね。ヤハギとカオルでジャンケンしてみて」
「は?」
 薫が思いっきり不審そうな表情をする。
「今度は何の遊びだい?」
 矢矧は面白そうに笑った。会話の流れに脈絡が無いことは誰もつっこまない。
「いいからァ!」
 この強引さの前には脈絡など要求されないのだ。
「はい、ジャーンケーン、ぽんっ!」問答無用で恵が大声をあげるので、薫は勢いに負けて手を出してしまった。矢矧は矢矧で楽しそうだった。
 勝敗の結果はすぐに恵が口にする。「あ。カオルの勝ちー」
 ぱちぱちと手を叩いた。
「何なんだ一体」
 頼むから説明してくれ。薫はそう言うが、これらの行為に意味を求めるほうが愚かかもしれない。代わりというわけではないが矢矧が言った。
「恵は、ナイフを取り上げられて不機嫌になってたはずだけど、もう機嫌は直ったのかな」
「そんなの、もォ、どーでもいーよー、だ」
 いーっ、と歯を見せてから、くるりんっと恵は踵を返す。
「マルー、アタシのカップにお茶いれてー」
 そう言って、恵は廊下の奥へと駆けていった。ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
「…おい」
 取り残された薫は、膝をついてしまいそうな疲労を味わっていた。隣では矢矧が声をたてて笑う。
 しかし薫も恵との付き合いは4年になる。不本意ではあるが恵の気性に慣れている自分を自覚しているのだ。それに薫は基本的に面倒見が良い。そして恵のことも嫌いではなかった。
 そしてまた矢矧も、恵のあの無邪気さを嫌いではない。
「薫」
 少し落ち着いた声で矢矧は言う。「998番の進捗は?」
「まだだ」
 薫は背中で答えた。
「早く欲しいんだけどな」
「…」
 薫が実務で担当しているのは、「医薬品」に分類される。しかし矢矧はときどき、妙な注文をすることがあった。その「妙な注文」の数は少しずつ増えていき、今では薫の実務の半分を占めるまでになっていた。
 それについて、薫は大層な不満がある。
「幻覚作用を持つ薬のほとんどは依存性を持つ。動物実験ならまだしも、臨床試験まで持ち込むつもりなら、かなり注意が必要になるだろ。例えフェーズの志願者が得られたとしても、あの仕様じゃ脳から壊れるぞ。実用性に欠けるものには興味が無いんだ」
 8歳の外見でそんな台詞を吐く姿は奇妙な違和感がある。しかし矢矧は気にしない。矢矧に言わせれば薫が素晴らしいのは当然だった。
 薫は、唯一矢矧が認めたあの男の、最後に残した秀逸な作品なのだから。
 矢矧は目を細めて笑った。
「実用性はあるよ。きみがその可能性を知らないだけだ」
「何に使うんだ、あんなもの」
「───さぁ。何に使うと思う?」
「くだらない問答につき合うつもりはない」
 薫にはそれらの疑問は大したことではなかったらしい。仕事があるから、と言い残して、薫もまたその場を離れた。小さな体は、恵に呼ばれて出てきた部屋に戻り、扉が閉る。
 ひとり廊下に残された矢矧は低い声で笑っていた。


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