/薬姫/壱
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■ 3.

 薫が班長を務めるのは、第3班。班員は総勢8名。
 薫を除く7名のうち、女性職員が一人。彼らのほとんどが30代だった。所内には薫の下に就くことを嫌厭する者もいるが、ここでは全員が薫を班長と認め、対等に話し、上司として信頼している。これだけ人が集まれば少しは反乱分子が出そうなものだが、そういう人間は薫が矢矧に言って異動させたので、健全な職場をつくる人材だけが残った。
 その日、薫は朝一番に3班の部屋へ入り、顕微鏡とにらめっこしていた。1005番の臨床試験の見通しが立たないことも気がかりだが、矢矧に急かされている998番を仕上げるための早朝出勤である。
 この間、矢矧に言った通り、薫は実用性に欠けるものには興味が無い。調剤の作業をパズルのように感じハマってしまうことがある薫だが、それが何の役にも立たないものなら面白味は半減してしまう。矢矧の意図を理解しようとは思わないが、目的の無い作業は本当につまらないものだった。
 それでもやらなければならないのが「仕事」というもので、薫は深い吐息をつく。
 部屋の中は机や分厚いファイルがひしめき合っている。今は人がいないのでしんと静まりかえっている。この研究施設は地下にあり窓がないので、朝でも太陽の光は入らない。薫は蛍光灯の明かりの下で作業を進めていた。
「あれっ、薫、早いね。おはよーございます」
 静かだった空気がその一言で揺れた。班員の一人、辻尾が入ってきたのだ。
 薫は集中していた糸が切れて、諦めの溜め息をつく。
「おはよう」
 挨拶を返した。
 実は班員の中でも、この辻尾は薫が苦手としている男だった。歳は(薫が言うのも何だが)所内では若いほうで25歳。目が細く黒髪短髪、その態度は体育会系のノリを持つ。さらに騒々しいというかケジメがないというか。それなりに仕事はできるが、その仕事にもムラがある。薫があまり良い印象を抱かないのも当然だった。それでも文句ひとつなく薫の下に就ける人間は貴重なので簡単に手放すこともできない。やっかいな人柄だ。
「そーだっ! 薫、相談があるんですよ」
 と、辻尾は薫の作業台の方へ近寄ってくる。
「今、忙しい」
 薫は一言で済ませた。
「ちょっと、まずいことが…」
 と、辻尾が真剣な声で言うので、薫はとりあえず手を止め、話を聞く体勢に入った。辻尾は薫のすぐ近くの椅子に腰を下ろした後、キョロキョロと周囲を見渡し、誰もいないことを確認した。
「一体、何なんだ?」
 薫が促すと、辻尾は細い目を近づけ、声をひそめて言った。
「数ヶ月前から気になってたんだけど…」
 その一言で薫は力が抜ける。
「何を言うつもりか知らないが、判断能力ないのか?」
 数ヶ月前から気になっていたことを、今更「まずいことが…」なんて相談されても。
「いや、ホント。マジでまずいことなんです」
 この気負わない性格が所内では貴重なのだが腹が立つときもある。
「さっさと続きを言え」
「少しずつ減ってるんだ」
 と、本当に唐突に辻尾は言った。まったく訳がわからない。本当に薫が言うのも何だが、日本語を勉強し直してきたほうが良いのではないか?
「何が」
 と形ばかりの相槌を返すと、
「842番」
 ボソッと辻尾は呟いた。
 薫は目を見張った。ガタンッと音をたてて立ち上がる。
「───オイっ!」
 息を飲んでしまい、うまく声が出なかった。それでもその声は静かな部屋に響いた。
 朝っぱらから何を言い出すんだ、と薫は毒づきたかった。それさえも声にならない。
 今、この男はかなりの大事を口にしたのだ。それでこの態度、自覚はあるのだろうか。
 ちょっとまずい、どころじゃない。
 842番は半年前の仕事のとんだ副産物で、かなり危険な薬だった。手違いで錠剤の形にまで完成されてしまい、かなりの量が3班に納品された。その危険性から、矢矧を含む外部への公表を控えようと班の中で意見が一致し、処分もできないまま、この室内で辻尾の手によって管理されているものだった。悪あがきとも言えるが、その危険性を訴える意味で、錠剤に特殊な色を付けるように薫が指示を出し、その後はずっと引き出しの中で眠っているはずの薬だが…。
「減ってる、って…」
「矢矧さんには恐くて言えないよ」
 この業界で管理は重要な意味を持つ。管理過失は報告義務があるのだが、前述通り公表しなかった物なので、辻尾は躊躇っていたらしい。
「馬鹿ッ! そんな問題じゃない!」
 薫は容赦なく怒鳴った。
 もちろん、勝手になくなるものでも少なくなるものでもない。誰かが持ち出したのだ。842番の効用を知っている班員がそんなことをするはずはない。
「辻尾!」
「はいっ」
「おまえだって、アレがどういう物か知ってるだろ!?」
 外に持ち出す奴も馬鹿だが、もしアレを誤って飲む人間がいたら、そいつも大馬鹿者だ。見た目からしてヤバイ薬だとわかる色が着いているのに。
 そして842番を誰かが飲んだら、すぐに大騒ぎになる。その「誰か」の死体が出るからだ。
 そのような騒動は起きてないので、まだ誰も服用していない。と、願いたい。所内でそんな事故を起こすわけにはいかなかった。
「紛失した薬の正確な個数を割り出せ。それから行方を追うんだ」
「は? そんな無茶な」
「元はと言えば、辻尾の管理が杜撰なせいだろ! 人死にが出たらおまえのせいになるぞ」
 辻尾は薫の台詞に悲鳴をあげたが、薫は本当はわかっていた。
 管理が杜撰なのは辻尾のせいだが、部下にそんな仕事をさせているのは自分のせいだ。そして、人死にが出たら責任を取るのは薫になるだろう。
 薫はあの薬による死傷者だけは出したくなかった。
 842番の製作者として。


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