キ/薬姫/壱
≪6/13≫
■ 4.
柳井恵が班長を務めるのは、第9班。班員は総勢10名。
ここで扱われるのは、審査を通すための医薬でも裏ルートに流すための麻薬でも、そして毒でもなく、選ばれた候補物質の非臨床試験準備が主な業務だった。他部署により薬効があることを認められた物質を、様々な方法を用いてどのくらいの効果があるのか、どのくらいの強さがあるのか、毒性や安全性などをまとめる研究部門である。
他部署との関わりが多いため、比較的毎日忙しく、室内は騒然としている。班員は自分の席に落ち着いていることは少なく、実験室で試験具にかじりついているか、他部署に出かけているかだ。
その中で、班長である恵は、壁際で小さくなって、ひつじを抱き締めたまま周囲の仕事ぶりを眺めていた。これは別に班長として監視しているわけではなく、ぼーっとしているだけだ。観察でもなく、目の前を流れる景色に身を任せているような、そんな空想癖的な雰囲気があった。班員の目から見れば、仕事をしないのは構わないが、一日中、じっとしているその姿は正直ゾッとする、気味の悪いものだった。
そのような信頼云々以前の問題である班長を抱えるこの9班が、うまくまとまり仕事が成り立たせているのには理由があって、それは副班長の丸山という男の存在だった。
彼は一研究員としても、もちろん優秀な男だった。が、この9班において彼が何より重宝がられていたのは、矢矧・薫のほかに、恵と実のある意思疎通が可能な数少ない人材だったからだ。
彼は恵本人にも気に入られていたので、恵と班員の仲介をすることが多かった。さらに丸山本人も、恵に対し臆することなく対話ができる人柄だったので、恵も班員も、希望や要望が丸山を通して伝わり、特にストレスを生むことなく9班は仕事をこなしていた。
今日は珍しく、部屋の奥でひとり、恵は試薬を扱っていた。ひつじを隣に座らせて、試験管をいくつも並べスポイトで選り分け、いくつもの薬品を混ぜていた。仕事ではない。…ということは、私用で班の備品を使っているわけだが、誰も何も言わなかった。
恵のそんな姿は本当に珍しい。化学の知識を持っていると聞いていても、普段の恵の姿からはとてもじゃないが想像できない。班員たちは自分の忙しい仕事をこなしながらも、それとなく恵の後ろを通り、何をやっているのか覗き込んだりしていた。全くわからなかったが。
この日、夜23時。第9班員はほとんど掃けて、室内には、相変わらず調剤に熱中している恵と、書類が積まれた机で事務を行う丸山だけが残っていた。
「恵。今日は終わりだ、部屋へ帰りな。廊下にいる護衛も待ちくたびれてるぞ」
丸山が振り返って声をかけると、恵の背中がピクッと反応し、ぱっと両手をホールドアップした。指先をひらひらさせる。
「はーい」
そして、おどけるのにも飽きた様子で腕を下ろし、ひつじを拾い、くるっと椅子を回転させた。
「マル。ちょっとお話しよ。ハンチョー命令!」
一日中、試験管とにらめっこしていたはずなのに疲れを見せず、恵は明るい声を上げる。部屋へ帰れという丸山の言葉を思いっきり無視した発言だが、丸山は慣れているのか自分の仕事をしながら苦笑した。
「命令じゃなくてもちゃんと聞く」
「じゃ、訊くけど」
「ああ」
「アタシが死んだら、悲しい?」
「……恵の好きなようにすれば」
背中を向けたまま丸山が答えた。
すると、恵は込み上げる笑いを抑えきれずに、興奮したように声を弾ませた。
「やっぱ、マル、すごーい! こんなかでアタシのこと一番解ってるのって、マルだよね」
「それは褒めてないだろ」
と、丸山はあからさまに嫌な顔をする。そうすると恵は大声で笑った。
突然、丸山は椅子から立ち上がった。机の間を通って恵に歩み寄り、恵の目の前の椅子に座り直した。
「マル?」
近くから顔を見つめられ、恵は照れもせずまっすぐに視線を返す。
「恵」
丸山は真剣な表情を向けた。くたびれた白衣の袖を持ち上げ、指さした。
恵に抱えられているひつじを。
「ひつじ」
「ン?」
「恵の、それ。熊」
「うん、なに?」
「最近、太ってきてるな」
「きゃははっ。乙女に言うかぁ?」
どうやらひつじはメスらしい。椅子に座ったまま上体を折って、恵は笑い転げた。けれど丸山の表情は変わらない。
丸山は恵が抱えているひつじの、腹の部分を見やる。
「何、食わせてるか知らないけど」視線を落とす。「おまえは、やめとけよ」
「…マル」
恵は目を細めて微笑んだ。
「解ってないナ」
ひつじをきつく抱きしめて顔を並べた。
「ひつじはアタシ。アタシはひつじなの」
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キ/薬姫/壱