キ/薬姫/壱
≪7/13≫
■ 5.
こつん。
と、一回のノックの後、恵は返事を待たずにその部屋のドアを開けた。
「ヤハギ。今、おしごとちゅう?」
その部屋は建物内のどの部屋より狭く、そしてどの部屋より雑然としている。当然、ここも地下なので窓はない。四方は本棚で囲まれ、それにも収まりきらない雑誌や専門書が床に積み上げられている。中央に机があり、パソコンが2台とディスプレイが2台置かれていた。その前を陣取り、ドアに背を向けているのは他でもない矢矧義経だ。ここは所長室と呼ばれていた。
恵の声を受けて、矢矧は眼鏡をはずし机の上に投げ捨てた。椅子に背をかけ音を鳴らす。大きな溜め息を吐く。それでも、恵に発せられた声は優しく甘い声だった。
「いいよ。なんだい?」
恵は部屋の中へ足を踏み入れ、後ろ手でドアを閉め、矢矧の背中に駆け寄る。
そのまま椅子に座っている矢矧の背中に抱きついた。両腕を矢矧の首に回すと、矢矧と恵とひつじ、3人で抱き合っているようだった。恵のそういう行動には慣れているので矢矧は身動ぎもせず、ゆっくり上体を揺らし椅子を鳴らしていた。
矢矧の耳元で、恵がぽつりと囁く。
「アタシの苗字、なんだっけ?」
「どうしたんだ、突然」
矢矧の穏やかな声に恵は口端を伸ばしておどけた。
「忘れちゃった」
恵は薫とセットで語られることが多く、恵の苗字を口にする者はほとんどいない。「恵」と「薫」という呼称が染みついているからだ。どちらかというと、薫の苗字のほうが有名でさえある。薫は、矢矧と相棒だったことで知られている芳野博士の娘だからだ。
「知りたい?」
矢矧が尋ねる。
これまでの会話で2人は目を合わせない。それがいつものことだし、普通のことだった。
「教えてくれないの?」
質問を質問で返したら、さらに質問で返され、矢矧は自分の質問を取り下げることにする。大人しく恵が知りたいことを教えてやった。
「柳井、だよ。柳に井戸の井だ」
「柳井…」
「そう」
「やだぁ、ヤハギと似てるよ」
「失礼だな」
2人は声をたてて笑う。
「ね。もうひとつ」
「ん?」
「カオルの名前、何てゆんだっけ?」
「薫だろう」
「教えてくれないの?」
「教えたじゃないか、今」
「もうひとつ」
「いつ最後になるんだ」
「これが最後!」
「はいはい」
恵は矢矧の背中を抱きしめる腕に力を込めて、矢矧と一緒にひつじも抱きしめた。
「アタシが死んだら、悲しい?」
「ああ。勿論、悲しいよ」
矢矧は即答した。
恵は目を酷く固く瞑る。予想通りの回答だった。
顔に薄笑いを浮かべる。ゆっくりと息を吐く。
「…ありがと。ヤハギ」
腕のちからを解いた。
すると、その腕を逃がさないように手を添えて、今度は矢矧が恵に声をかける。
「どうした。えらく殊勝じゃないか」
「なに? シュショウって」
そう尋ねると、矢矧は首を回し、背中にはり付いている恵に目をやって口端で笑う。
「───なに企んでるんだ? という意味だ」
「ナニタクランデルって、なに?」
矢矧の眼光にも、恵はいつもののんびりした明るい声で大きな瞳を返した。さらに矢矧は応酬する。
「裏切りは許さない、という意味」
「ユルサナイって、なに?」
「…そうだなぁ。殺人予告、かな」
少し言葉に迷った矢矧の台詞を聞いて、恵は目を丸くした。
「ヤハギが殺してくれるの? アタシを?」
「そうさ」
矢矧は言い切り、恵はくすくすと笑い出した。
「ウソツキ」
そう、呟く。
「…話が難しくなってきたなぁ」
「アタシも。ムズカしいことはキラい」
恵はするりと矢矧の背中から離れ、ひつじを胸に抱く。
矢矧は机の上の眼鏡を手に取り、かけ直した。
「訊きたいことがそれだけなら、早く部屋へ帰れ。もう遅い」
「はーい」
矢矧の言いつけ通り、恵は背を向けて、所長室から出て行く。
ぱたん、とドアが閉まった。
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キ/薬姫/壱