/薬姫/壱
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■ 6.

 恵はひつじを抱きしめるとき、ひつじの顔を前に向ける。ひつじと向き合うことはしない。
 抱き合う存在が欲しいわけじゃない。
 同じものを見る「自分」がもうひとり欲しいのだ。
 恵は自室の中央に置かれたミニ・チェアにあぐらをかいて座り、そして勿論ひつじを抱きしめていた。背もたれに背を預け、ちょうど見える角度の天井を眺める。天井を含め、この部屋の壁紙はすべて白色だった。はじめはコンクリートの打ちっ放しだったが、恵が矢矧に頼んでわざわざ壁紙を貼り直してもらったのだ。
 そして恵の部屋は極端に家具が少ない。ミニ・チェアの他は、ベッドと、床に直に置かれている旧式のパソコン。収納があるくらいだった。
 この部屋に誰かが訪れることは滅多にないが、矢矧と薫以外の人間は必ず気味悪がる。現に、一昨日、ナイフを奪いに来た2人は声も無く顔をしかめた。
 何故なら、この部屋の壁にはあちこちに落書きがあるからだ。
 その落書きはすべて茶色い。血が乾いた茶だ。
 恵の左腕から流れた血液で書かれていた。
 マルバツや星などの形から、恵自身やひつじの似顔絵(幼稚園児並みの絵だが)、英語の文句や化学式、ベンゼン環なんてのもある。4年の月日は、壁4面を血の落書きで埋め尽くした。恵は血を流し続けてきた。
 その壁に囲まれて、恵はチェアに座る。あぐらをかいて、ひつじを抱きしめて。
「ぅ───…」
 そして泣いていた。
 天井を眺めたまま。涙を拭いもせず。
 涙は流れ続け、頬と顎を伝って、襟に滑り込んだ。それは気持ち悪くて煩わしかった。
 ヒトが流せるのは血だけじゃないことを知る。
 でも血を流したほうがきれいになるわ。恵はそう思った。
 血を流すためのナイフは矢矧に取り上げられてしまった。
 汚いものが溜まっていく。侵されていく。
「ぁ───…」
 涙が止め処なく流れる。
 泣くのはドッと疲れる。血を流すほうが、どんなにか楽だろう。
 でも、もうそれですら収まらない。
 もう「血を流したい理由」がどこにあるのか探せない程、この体はその理由で満たされてしまった。
 もう消せない。戻れない。
 賽は投げられた。結果の通りに進むだけ。
「…ふふ。…はっ、あははは」
 突然、恵は笑い出した。
「あっはっはっはー」
 涙を流し続けたまま、心から笑う。
 ドアの外にいる護衛の男は、笑い声を聞いて、さぞ気味悪がっただろう。
「うふふふー」
 でも今は、その男のことさえ、愛せた。


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