キ/薬姫/壱
≪9/13≫
■ 7.
コンコン。
「恵。まだ、やってるのか?」
第9の研究室。ノックの音の次にドアから入ってきたのは白衣姿の薫だった。
「やっほー、カオル。どしたの? あ。入って入ってー」
室内にいたのは恵一人。奥の一画だけ灯りが点けられており、その下で恵は振り返って手を振る。その作業台の上には試験管が並べられていた。その他、褐色瓶とスポイトなど。
時刻は0時に近い。
「丸山は? いないのか?」
「マルは、先、あがったよ。ね、どーしてアタシが残ってるってわかったの?」
「廊下に護衛が突っ立ってた。あちらもご苦労なことだな」
皮肉を言って、薫は恵のほうへ足を進めた。すると強い薬品の匂いを感じた。薫は首をひねった。
「調剤やってたのか?」
「うん、昨日から」
珍しいな、と作業台の上を覗き込む。蛍光灯の薄明かりの下、手元が暗いだろうに恵はここで作業をしていたらしい。試験管の中に少しの残薬がある。そして恵の正面に小さな透明の小瓶があり、その中に透明な液体が満たしてあった。どうやらそちらが完成品らしい。恵はその小瓶に抗菌コルク栓の蓋をした。
「ハイ、できあがりぃ」
コルク栓ということは、注射薬だろう。
「何をつくったんだ?」
「これ?」
恵はにかっと笑うと、
「毒」
と短く呟いた。
「───」
「と、いうのはウソ」
「…こら」
言葉を失っていた薫は、タチの悪い冗談に低い声を出した。恵は相変わらず無邪気に笑っている。薫は溜め息をついた。
「アー、でも、これ使うとなったら、試験部から注射器とってこなきゃだよね」
「あそこの連中は簡単には貸してくれないだろ」
警告の意味も含めて促すと、恵は不気味に笑った。
「うふふふふ」
そして自慢げに胸をそらす。
「実はアタシ、所内のほとんどの部屋、こっそり入り込めるんだっ。コレ、ちょっと自慢」
「は!?」
薫は大声を出した。
各班、無人になるときの施錠は義務づけられている。どうしても他の部屋へ入室する必要がある時は、そこの班長を呼び出す決まりだ。「こっそり入り込める」ということは、恵は合い鍵を持っているということだろうか。
「あ。怒られるのイヤだから、ヤハギには内緒にして」
人差し指を口にあてて、恵は「ね?」と首を傾ける。
「忍び込んで何してるんだ?」
呆れたように薫が言う。
「毒薬か劇薬が欲しいの」
恵は真顔で答えた。
さっきは言葉を失ってしまった薫だが、今度は失笑した。
「そんなもの、本当に特殊な班にしか無いだろ」
「カオルが思ってるよりは、沢山あるよぉ」
「何に使うんだ」
「アタシが飲むの」
さらに恵は真顔で言う。薫はその表情を訝しげに凝視した。
「───恵?」
「カオルは」強い声で言う。「死にたいって思うことないの?」
「ないよ。そんなこと」
と、即答した。薫が深く考えずに答えたので、恵は悲しかった。
「そう? アタシはいっぱいだよ?」
恵はひつじの頭を優しく撫でた。
「死にたくなるとね、飲むの。毒ならどんな薬でもいい。───でもアタシは毒では死ねないから、ひつじに代わってもらうの。ひつじに飲んで、死んでもらうの」
薫は内心で安堵の溜め息をついた。どうやら、恵自身が薬を飲んでいるわけではないらしい。
ひつじに飲んで、死んでもらうの。
そう、恵は言った。
しかし薫は「死にたい奴は死ねばいい」という考えの持ち主なので、恵の行動は理解し難かった。「死にたい」と言いながら生きている人間には無性に腹が立つ。結局、死ねないままの現実逃避───甘えなんだと思う。
薬は人の命を救うためのものだ。薫はそう信じている。死にたくないのに、死を待つしかない人たちのために、ここでは研究開発が行われている。───薫はそう、信じている。
だから恵の台詞にも苛ついた。
「恵の体に毒が効かないのは私も知ってる。でもそんなに死にたいなら、おまえが持っているナイフで手首を縦に突けばいいだろう? 躊躇い傷じゃなくて」
皮肉というか嫌みというか。
幼い薫のしゃらくさい台詞に、恵は込み上げてくる笑いを抑えきれなかった。
「違うよぉ。手首を切るのは、生きるためだよ。明日も生きたいって思うとき、手首を切るの」
まったくわからない。
恵は毒では死なない。それでも死ぬために毒を飲む。
恵を殺せるはずのナイフ。手首を切るのは生きるためだという。
「それって矛盾してるだろ?」
「矛盾してたらいけない?」
すぐに恵は切り返す。真顔で、真剣な表情だった。怒っているような表情だったので、薫はそれ以上何も言わなかった。
「カオルは、外に出たいって思ったことないの?」
そしてまた唐突に、恵は質問を投げかけてきた。
「は? 外?」
「ここ以外の場所」
薫はまだ、恵との会話に付き合う余力があったので、まともな回答をした。
「別にそんなの、出ようと思えばいつもで出られるだろう。閉じこめられてるわけじゃないんだから」
「答えになってないよ?」
「…今はここの仕事が忙しいし、充実してるから、そんな風に思ったことはないな」
と、本当に充実してるんだなと思わせる晴れ晴れとした表情で薫が言った。恵は思わず失笑して、
「おばかさん」
と呟いたが、声が小さかったために薫には届かなかった。
「A possible thing is realized in when.」
きれいな発音で恵が口にした。普段の恵の口調よりなめらかだった。
「…なに?」
薫は聞き取ることはできたが意味がわからない。
「ヨシノ博士が教えてくれた」
事も無げに恵は口にしたが、芳野という名が出て薫は目を見張る。所員たちが「芳野博士」と呼んで尊敬する人物は、かつての矢矧の相棒であり、そして4年前に亡くなった薫の父親だ。
「化学者のなかで有名なコトバなんだって。───とても恐いことだ、って」
「…意味は?」
「"可能なことはいつか実現される"」
恵の唇が、ゆっくりと発音した。続けて、少し考えてから説明を付け加えた。
「例えば、ヒトのクローンや遺伝子操作がソレだって言ってた」
言い慣れない単語を、恵はぎこちなく発音する。
「現在の至らない技術的問題は時間が解決してくれる。でも社会から反対するイケンが出てくるのは間違いない。───でもね、そういう倫理観や道徳観念はカンケー無いの。できることはやってしまうの。それがどんなヒドいことでも、ワルいことでもだよ? ヒトは知的好奇心を抑えきれないの。そういうイキモノなの。知能を持つ唯一の霊長類は、そんなオロカなイキモノなんだって。───カオル」
「…なんだ」
恵を通しての父親の言葉を、薫はすぐに理解できないでいる。恵の様子もいつもと違う。
こんなハキハキと、ものを言う人物だっただろうか?
「薬はパズルじゃないよ。作るのは人間。───そして使うのも人間」
「そんなの、わざわざ教えられなくても知ってる」
半ばムキになって薫が言う。さらに訴えるように恵。
「カオルが作ったものは、ヒトが使うんだよ」
「だから! 知ってるって言ってるだろ。実用性のあるものしか、私はつくらない」
「ヒトは善意だけでできてるんじゃないよ?」
あまりにも自然に恵は話が飛ぶ。これはいつもの恵だ。
恵に悪気は無いのだろうが、薫はその思考についていく労力で疲労を感じてる。他の人間は恵の支離滅裂さを無視することが多いが、疲労を伴ってまで恵の話を真剣に聞こうとするのは薫の人柄とも言える。
恵は目を反らし静かに笑った。その横顔はとても大人びて見えて、いつもの恵には見られない表情だった。
「…そうだね。…そう、カオルの作った薬で誰かが苦しむのをカオルが見れば、カオルもわかるだろうね」
それはまだ先のことだろうけど。
「カオルがつくった薬で誰かが傷つけば、思い出すだろうね」
哀れむような目で薫を見つめて、恵は昔のことを思った。
やわらかな日差しの中で、穏やかに笑う彼のことを。
≪残念なことに、ヒトには悪意が存在するんだ≫
そう悲しそうに笑う彼が悪意を持っていたかは、恵にはわからない。
≪どんな危険な物でも、そこにあるものは使わずにいられないし、一度使ったら手放すことはできない。ヒトは自分を衛るために武器を持つけど、強すぎる武器を持つと暴走してしまうことがある。我々が扱う物はささやかな要素でしかないけど、作り出すものは「強すぎる武器」だ。良くも、悪くもね。だから我々はこの知識を使うとき、十分に気を付けなければいけない。心得ておかなければならない。…恵も、この学問を修得するなら、忘れないでおいて欲しいんだ≫
恵は手にしたばかりのぬいぐるみを抱きしめる。サラサラの毛並みが心地よかった。彼の言葉をすべて理解することはできなかったけれど。
≪あのコも、そーいうの、ココロガケてるの?≫
そう尋ねると、彼は「父親」の顔になって、照れくさそうに言った。
≪うちの娘は言葉を覚えるより先にこれにハマってたからな。…でも、ちゃんと教えてきたつもりだ≫
≪じゃあ、───…あのヒトも?≫
その問いに彼は何て答えただろうか。忘れてしまった。
でも。
あのヒトはきっと、使ってしまうから。
そのトキにやっと、カオルは彼が教えてくれたことを思い出すだろう。
今まで知らずにいた、闘わなければいけない理由に気づくだろう。
「アタシ、部屋に戻る」
ふいと恵は立ち上がった。
「恵?」
そして振り返る。恵はにっこりと笑って、無邪気にひつじの手を振って見せた。「バイバイ」
「さよなら、カオル。おやすみ。よい夢を」
≪9/13≫
キ/薬姫/壱