キ/薬姫/壱
≪10/13≫
■ 8.
「薫! 起きろ」
文字通り薫は叩き起こされた。部屋のドアがどんどんと壊れそうな音をたてた。
文字通り薫は飛び起きる。寝起きは良いほうで、すぐに意識を取り戻すことができた。
時計を見なくてもわかる。部屋に窓はなく、外界からの光も無いけれどわかる。まだ起きるような朝の時間ではない。
「何事だ」
起こされた声で有事を悟った。薫は近くにあった服を着て、白衣を身につけた。ドアの向こうから震える声が返ってきた。
「守衛が殺された。薬殺らしい」
「なんだとっ?」
バンッ。薫はドアを開け廊下へ飛び出した。そこにいたのは6班班長の折居という男だった。確か彼は泊まり込み組だ。薫と同じく誰かに起こされたクチなのだろう。
薫と折居は並んで走り出す。走りながら、薫はまず気になっていることを尋ねた。
「薬殺…って、誤飲か?」
ここは重要な点である。この所内には沢山の薬がある。その中には死に至らせるものもあるだろう。守衛本人による誤飲ならともかく、明らかな他殺だとすると内部に殺人者がいることになってしまう。
規則的に続く蛍光灯の下を走り、2人は守衛室に向かう。折居は歯切れの悪い口調で答えた。
「注射だ。しかもご丁寧に頸動脈。自殺とも考えにくい」
その光景を想像して薫は気分が悪くなった。しかし一方で、どこか安心している自分に気づく。注射ということは、842番の被害が出たわけではない。
「矢矧は?」
「もう行ってる。他に泊まりの数人が集まってる」
守衛室につくと、折居の言う通り数人の職員がドアを囲んでいた。薫が走るのをやめ、ゆっくり近づいたとき、ちょうど人垣から矢矧が出てきたところだった。
「薫、おはよう。結構、酷いけど…見る?」
と、矢矧は酷いとは思ってないような態度で言う。その矢矧に促され、薫は室内に入った。
空調は効いているはずなのに、むわっとする熱気を感じた。いや、単に空気が悪いだけかもしれない。
黒服の男がだらしなくソファに寝そべっていた。
右手は喉元に添え、左手はだらんと床に落ちている。それだけなら寝相が悪いだけのようにも見えるが、男の顔がそれを否定していた。
はち切れそうに開かれた目は赤く充血しており、涙も無く乾いている。最期に何を叫んだだろう。奇妙に歪んだ口は筋肉が硬直したように固まっていた。顔色は青いというより灰色で、粘土のようだった。自分の髪を引きちぎったのだろうか。右手の指先には髪の毛が数十本絡まっていた。
「……」
薫は死人を見たのは初めてだった。素直にゾッとした。
テーブルの上には飲みかけのカップ。吸い殻の中の煙草はまだ長い。数時間前までこの男は息をしていた。
薫は手を握りしめる。
薬が効くのは生きた人間だけだ。そのことを痛感させられた。
そしてソファの下には、犯行に使われたと思われる注射器が落ちていた。注射器の出所は特定できる。所内で注射器を使うのは10班から13班、つまり試験部だけだ。
「薫。大丈夫かい?」
青ざめている薫に、矢矧が声をかけた。薫はどうにか答えることができた。
「ああ…」
「犯人は内部だな。本業ではないが、犯人探しといくか」
気のせいだろうか。その声は状況を楽しんでいるように聞こえた。
気のせいだと、薫は思った。
矢矧の言う通り犯人を特定することは重要だ。誰が何のために殺人を犯したのか。どんな事情があろうとそんな危険人物を所内に置いておくわけにはいかない。
「薫は? 何か心当たりでもある?」
「あるわけないだろう」
「だよね。───注射器は斉藤に回して成分を調べさせろ。それから西山をこっちに寄こしてくれ」
矢矧はドアの外にいる数人の職員に指示を出す。
「…?」
ふと、薫はある薬品の匂いがすることに気づいた。
この部屋の中。
どれだろう? 薫は部屋を見渡した。
それはどの班でも使われるごくありふれた薬品だ。でもこの守衛室に薬品など置かれてない。
───いや。
薫は、今、この部屋の中に唯一存在する薬に目をやった。
落ちている注射器である。匂いの元はそれだ。
そしてこの薬品の匂いは、最近、間近で嗅いだ覚えがある。
あれはどこだったろう?
長くは悩まなかった。すぐに頭の中で記憶の検索がヒットした。
そして薫は無意識に呟いていた。
「……恵?」
それは本当に小さい声だったけれど、矢矧は聞き逃さなかった。
ハッと思い立ったように目を見開く。
「オイ! 恵はいるかっ?」
廊下に向かって叫んだ。職員たちは顔を見合わせる。
「あの子はこの時間じゃ起きてこないでしょう」誰かが言う。
矢矧は廊下を走り出していた。
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