/薬姫/壱
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 熊のぬいぐるみが、壁にぶらさがっていた。
 銀色のナイフで腹をひと突き。串刺しにされているぬいぐるみはげっそりと項垂れていた。
 そのナイフには血が流れていた。まるで、ぬいぐるみが血を流している様に。
 そしてもう一人の守衛が血を吐いて倒れていた。息がないのは明白だ。
「なに…?」
 恵の部屋に入って最初に声を発したのは薫だった。一番に駆け込んだ矢矧の表情は薫の位置からでは見えない。後からやってきた数人の職員たちは、室内を見るなり奇声をあげた。
 部屋に鍵は掛かっていなかった。部屋のなかは薄暗かった。部屋のなかに恵はいなかった。
 そして血文字の壁には、ひつじが、ナイフで突き立てられていた。
 ひつじとナイフ。
 どちらも、恵がずっと手放さなかった物だ。しかし肝心の恵の姿はない。
「恵はどこだ…?」
 薫が独り言のように呟くと、矢矧の背中が答えた。
「あいつは監視を殺して逃げたんだ」
 その声は怒りに満ちていた。いや、それをきつく抑え付けるような息苦しさがあった。
(逃げる…?)
 その言葉は薫の胸に引っかかる。
「恵が? まさか…」
 でもあの匂いは恵が作っていた薬のものだ。
(これ使うとなったら、試験部から注射器とってこなきゃだよね)
 恵はそう言っていた。
「まさか…」
 薫は力無く呟いた。
 本当に恵が殺したんだろうか? 前日に薬を作るなんて、計画的に。何故殺した? 何故いなくなったのだろうか。ずっと胸に抱き離さなかったひつじを残していったのは? 薫は思考が整理できない。矢矧の中ではこれらすべての事象が繋がっているのだろうか。
 矢矧は守衛の死体には見向きもせずに奥へ進んだ。壁のひつじに近寄る。
「…くそッ」
 吐き捨てると同時に、ひつじの足を力任せに引っ張った。
 すると。
 ザザ───
 視界が赤く染まる。
「!」矢矧は一歩退いた。誰かが悲鳴をあげた。
 ナイフで固定されていたひつじの腹が切り裂け、そこから赤い粒が無数、滝のように床に、転がり落ちたのだ。小豆大の赤い粒は軽く転がり、ドアの近くにいる薫たちの足元にも敷き詰められた。
「───っ」
 薫は叫びそうになった。
 床に敷き詰められた赤い粒は、薫の部下である辻尾が探しているはずのもの。
 842番。それであった。

 散らばった錠剤が、まるで血のようだった。
 職員たちは顔をしかめその光景を眺めていた。思わず目を背ける者もいる。
 血文字に埋め尽くされる壁、血染めのナイフが突き立てられたぬいぐるみは腹が引き千切られている。クマのあどけない表情が異様で不気味だった。そして床一面に散らばる赤い錠剤。もう一つの死体。
 空気が澱んでいる。この部屋からは咽せるような血の匂いがする。
 この部屋の住人は正気を保っていたのか?
 今、この部屋の中で平常心を保っている者は2人だった。
 一人は矢矧。
 そしてもう一人は9班副班長の丸山。
 丸山はわずかに目を細めただけで、すべてを悟り、視線を落とした。
 その丸山の姿を視線の端に止めたのは薫だけだった。しかし薫は、842番の薬の所在を知り、動揺していた。
 辻尾は言っていた。「数ヶ月前から、少しづつ減ってるんです」と。
(どこが少しなんだ!)薫は罵倒する。842番の引き出しの鍵を開けられるのは辻尾と薫だけだ。それでも恵は開けていた。
 恵は3班に忍び込み、この薬を盗んでいた。多分、少しずつ。それがこれだけの量になった。紛失した薬は、いつも恵の腕の中にあったのだ。
 恵はひつじに飲ませていた。
「死にたくなるとね、飲むの」
 恵はそう言っていた。
「でも毒ではアタシは死ねないから、ひつじに代わってもらうの」
 薫は足下に敷きつめられた赤い錠剤を見下ろす。数は百を超えるだろう。
 薫は身震いした。
(───これが、恵が死にたくなった数…)
 想像するのは簡単なことのはずなのに、恵の思考に追いつくことができない。辿ろうとすると、耳の奥が痛くなった。
「赤…とは、いい趣味だねぇ」
 矢矧が感心したように溜め息をついた。その一言で場の空気の緊張が少なからず解けたが、ほとんどの者は今度は矢矧の台詞に恐れ入った。
「気をつけろ。毒だ」
 と、薫は咄嗟に口走ってしまった。そして口にした後で、それが不用意な一言だったと気づいた。両手で口元を押さえる。どうしてそれを不用意だと思ったのか、自分でもわからない。
 当然、矢矧はそれを聞き逃さなかった。
「これ。薫が作ったの?」
 感情の読めない表情で訊いてくる。薫はしぶしぶ頷いた。
「…ああ」
「ふぅん。成分はなに?」
「…」
「薫」
 強い声で回答を求められる。しかし薫は喉が急激に渇いて声が出せなかった。
 どうしてだろう。言ってはいけないような気がした。
 胸に圧迫を感じる、この感情が何なのか、薫はわからなかった。
「…番木鼈」
 どうにか薫が答えると、矢矧は低く笑う。
「ストリキニーネ?」
「ああ」
「致死量は?」
「…動物実験にも回してないから正確にはわからない。計算では0.1グラム以下だ」
「あははっ。ひどい薬だ」
 矢矧は吹き出した。
 ストリキニーネは、フジウツギ科の番木鼈という植物の種から採取されるアルカロイドである。血管、呼吸中枢を興奮させ、脊髄の反射機能を亢進する。吸収が早く、中毒症状は30分以内に訪れ、痙攣は15分から60分。その作用は強烈で「反弓緊張」と呼ばれる弓なり状態が2分以上続くことがある。肉体の反応に対し、意識は正常なため、患者は呻き声をあげて、酷く苦しむ。重傷の場合は3〜6時間で死亡。激痛に何度も襲われた結果、急速に衰弱して死に至るわけであるが、死者の目は、大きく見開かれているケースが多い。
 この赤い薬はそれと同じ性質を持つ。矢矧が「ひどい薬」だと評したのも無理はない。
「俺にも少し分けてよ」
「───」
 薫は矢矧に目を奪われた。何を言い出すんだ、この男は。
 使えない薬など、手に入れてどうするというのか。
 矢矧は返事を待たない。踵を返すと、無駄に荒げない口調で職員に指示を出した。
「監視2人の死体はすぐに処理しろ。死因については所員全員に箝口令を敷け。おまえらの口から漏れるのは絶対に許さない。役所への建前は俺がシナリオを書く。それから」矢矧は目をつり上げる。
「恵を捜せッ! 連れ戻すんだッ」
 薬殺死体が出たなどと外に漏れたら厚生省の監査が入るのは必至だ。そうすればこの研究所のスポンサーも、庇い切ることはできないだろう。何か適当な、当たり障りのない理由を考えなければならない。
 矢矧の指示に職員達は散り始める。
 しかし、職員達の足を止めさせる高い声が響いた。
「───待て」
 薫だった。腹が引き裂かれても壁に張り付けられたままのひつじを見上げている。赤い錠剤でできた川の上に立つ薫は言った。
「恵を追うのか?」
 室内がしんとなる。死体を片づけようとした職員も薫の声に動きを止めた。
 ここで薫の問いに答える権限を持つのはひとりだけだ。職員の視線がその人物に集まった。
「どういう意味かな」
 矢矧が声を抑えて言う。薫は振り返った。
「あいつは自分の意志でここから出て行った。外に行きたい場所があったのかもしれない。ここに居たくなかったのかもしれない。何故、追う必要がある? 恵をここに置いておかなければならない理由でもあったのか? それとも」
「それとも。───なにかな?」
 薫の言葉を遮っておきながらそれでも穏やかに笑い、逆に問いかけてくる。薫が目を見開き矢矧の顔を凝視しても、矢矧は変わらず笑っていた。
 背筋が寒くなった。
「…なんでもない」
 自分の発言を取り下げることに不本意を感じなかったのは初めてだった。
「いいよ。君の言う通りにしよう」
 と、矢矧はあっさりと言う。
「恵がいなくなるのは寂しいけど、───俺には薫がいるしね」
 ククッと楽しそうに笑った。そして近くの職員を捕まえて、何やら耳打ちをする。
「恵の居場所は掴んでおけ」
 そう言ったのだが、薫には聞こえない。

「…矢矧」
「なんだい?」
「うちの班の辻尾、いらない」
 薬品管理は辻尾の仕事だった。これは重要な仕事だ。
 パッケージされる前の薬には名前が書いてない。一見、見分けがつかないような物がたくさんある。それらすべてを選り分け、混ざらないように、間違いのないように管理しなければならない。それなのに、よりによって842番を外へ出すとは。
(あの…馬鹿ッ!)
 薫は胸の中で叫ぶ。
 辻尾は信用を失くした。もう一緒に仕事なんてできない。
「ふん。姫のご機嫌を損ねた野郎がいるわけか」
 と、矢矧は苦笑した。「───じゃあさ」
 矢矧はその場で屈んで、散らばった赤い錠剤のうち、足下にあった一つを指先で拾う。それを目の高さまで掲げると、矢矧は目を細め薄笑いした。吸い込まれるように陶酔した瞳で、赤い錠剤を見つめながら。
「これ、飲ませてみようか」
 含み笑いをもたせて言った。
「え…」
「いらないんだろ?」
 ひどい薬だと評した後なのに、矢矧はそんなことを言う。違う、薫はそう言いたかった。けれど喉が震えて、声にすることができなかった。
 矢矧は薫の肩に手をぽんと置いて顔を覗き込む。
「冗談だよ」
 矢矧はそう笑ったけれど。
「───」
 きっと以前の自分なら、その笑顔を素直に信じていた。
 けれど今。
 頭の芯が凍るのを感じた。
 胸の奥で、不安が生まれた。


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