キ/薬姫/壱
≪13/13≫
こつん。
深夜、守衛室のドアがノックされた。
監視カメラの映像に注意を払いつつもテレビ番組を見ていた男は、「はい」とノックに応えながら腰を上げた。男がドアにたどり着くより先にドアは開かれ、人影が飛び込んできた。
「ねぇっ! たすけてっ」
白いツナギに、長い三つ編み。ひつじをその胸に抱いて、入ってきたのは柳井恵だった。
「恵…っ?」
「もう一人の護衛サンが大変なの!」
と、必死の形相で言う。「もう一人の護衛」とは、恵に就いている監視役のことに違いない。その人物なら恵の部屋の外で一晩待機のはずだが。
「突然倒れちゃって、血ぃ吐いて苦しそうで…! アタシ恐くて」
怯えた声で涙を滲ませる恵の両肩を男は掴んだ。
「落ち着け! 何があったんだ」
「───」
とすっ
男の首に小さな注射器が突き刺さった。「何…?」事態を把握できず、男は自分の首から生える透明なガラス筒に目をやる。その下には、鋭い視線を放つ恵がいた。恵の白い指先は何故か注射器に添えられている。その指先は容赦なく注射器のピストンを押した。
男の頸動脈に透明な液体が注入された。
「かは…ッ」表情筋が奇妙に歪められ、瞳孔が開き、男は吐血した。その血は恵の白いツナギに染みをつくった。
男は喉元に注射器を生やしたまま体を反らせ、ソファの上に倒れ込んだ。
「ガ…ッ、ぅ」
空を掻き、男は悶える。しかし10秒も経つ前に充血した目を天井に向けたまま、静かになった。
恵はその様を目をそらさずに見ていた。
「…ハァ…ハァ」
息が乱れる。体が震えるくらい鼓動が騒いでも、恵は辺りを見渡すことを忘れなかった。
取り返さなければならないものがある。
(どこ…?)
部屋のなかは薄暗い。
監視カメラの映像を映すディスプレイ、出入口の施錠をする操作盤。煙がのぼる吸いかけの煙草。湯気が立つ飲みかけのコーヒー。つけっぱなしのテレビ番組。そんな生活感あるものたちが嫌に白々しい。この部屋を使っていた生き物は、たった今、生き物じゃなくなったのだ。息絶えた。屍。
恵は事務机の上に、目的のものを見つけた。
銀色に光るナイフ。恵のものだ。
恵は数日ぶりにそれを手にする。手によく馴染むそれを見つめ、恵は安心したような表情をした。自分の手の中にひつじとナイフが揃ったことに安心した。
そしてこれが手に入ればもうこの部屋に用は無い。
煙草もコーヒーもテレビもそのままにして、部屋を後にする。ソファに崩れているヒトの形をしたモノにも、もう興味はない。恵は部屋を出てドアを閉めると、廊下を駆けた。
長く続く廊下は、いつも恵を不安にさせる。こんな閉塞した道がどこまでも続いているようで。
廊下の先の深い闇は心を惑わせる。照明はついているのに、濃い黒色に飲み込まれそうな錯覚に陥る。
でもここで踏みとどまるわけにはいかない。
ひつじとナイフを胸に抱きしめる。
(まもって…っ。おねがいだから)
窓が無い廊下に、均等に続く飾り気のない蛍光灯。その下を、恵は走った。
もう一度、自分の部屋へ。
同じ棟に、矢矧と薫の部屋がある。それから数人の職員と、泊まり込み希望者の詰め所。恵の部屋はそれらの一番奥だ。
物音を立てないように細心の注意を払いつつ走りながら、恵はずっと怯えていた。
今にも、そこのドアから誰かが出てきそうで。
今、捕まったら、ヤハギはきっとアタシを許さない。絶対、殺してくれたりなんかしない。
部屋に閉じこめて、ひつじさえ奪ってしまうに違いない。
もしカオルに見つかったら、一緒に連れて行ってしまおう。
…マルは黙って見逃してくれる。
他の職員だったら、もう一度この手が汚れるだけ。
(まもって! もうここにはいたくない!)
そんな些細な願いを、ずっと叫び続けていた。
ひつじに毒を飲ませることで自分を殺し、ナイフで手首を切ることで自分を生かしてきた。
毎日、必死だったよ?
ひつじとナイフを持って、この両足を立たせることで精一杯だった。
立てなくなる前に。まだ力があるうちに───。
部屋のドアが見えて、恵は足を速めた。
あと3歩。
ノブに手をかける。ひねる。引く。
恵は部屋の中へ体を滑り込ませた。
「…ハァ…ハァ」
後ろ手でドアを閉めると一気に緊張が解かれ、恵は疲労困憊で大きく息を吐いた。
暗い部屋の中にはもう一人の監視の死体が転がっている。
途端に、胸に冷静さが戻った。
まず恵は自室の前に立っている監視を殺した。その後に守衛室へ向かったのだ。
十分程前。手を掛けたときはあんなに汗を掻いていたのに、今はもう汚い物が捨ててあるようにしか見えない。
冷めた目でそれを一瞥すると、雑な足取りで恵は奥へ進む。そしてベッドの上に、丁寧にひつじを寝かせた。
恵はナイフで自分の左手首を切った。
少しだけ深い。1秒の後、赤い液体が流れ出て、指先を伝って床に染みを作った。恵は眉ひとつ動かさなかった。
ナイフを逆手に持ち替える。
ベッドに転がるひつじを拾う。
血が流れる左手で、ひつじを壁に掲げた。
白い壁。赤い落書きの上に押さえつける。
恵は右手を振り上げた。
ザクッ
歯切れの良い音がした。
銀色のナイフがひつじの腹を通って、壁に突き刺さった。
ナイフで壁に貼り付けられたひつじは、まるで五寸釘に打たれた藁人形のよう。ひつじはいつもと変わらない表情で恵を見下ろしている。腹から突き出るナイフからは恵の血が流れ落ちた。
恵の瞳から涙がこぼれた。
目の高さより少し上に張り付けにされているひつじを哀れむように眺める。
恵は一歩踏みだし、ひつじをはさむように両手を壁についた。
黒く丸い目を見つめる。恵はかかとを上げた。顎をあげて、ゆっくり吸い寄せるように、ひつじに最後のキスをした。
ずっと一緒にいたけど、それでも置いていかなければならないもの。
アナタを置き去りにして、お願い、ひとりで行かせて?
そっと唇を離す。
潤んだ瞳でひつじを見つめて、震える乾いた唇と一緒に鳴る奥歯。
胸がはりさけそう、でもそれをどうにか抑えて、代わりに声帯を通して声にする。
「あいしてる」
過去の自分を、ずっと。
あいしつづけるから。
わすれないから。
勇気をちょうだい。
ずっと膝を抱えてたこの部屋から走り出したいの。
きっと優しくない、でもきっと美しいトコロへ、扉を開けて、ここではない場所へ。
この存在を表す名前を再確認して。
この手を汚して。
ずっとアタシを守ってくれていた、ナイフと過去の自分を置いて。
すべて捨てて、なにも持たないで。
毒を飲み続けながらも、生に導かれ。
これから見る光を、きっとアタシは過去の自分に見せたくなる。
でもそれは叶わなくて、アタシは叫び続けながら、涙を流すだろう。
矢矧は薫とアタシを持ってた。
アタシはひつじとナイフを持ってた。
薫。
その両手に何も持たないで、どうやって闘うの?
薬姫-壱 了
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キ/薬姫/壱