/薬姫/先生
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 1.

 仕事が一段落すると、ひとり、いつも考えてしまう。
 安物のボールペンを右手に、汚い文字が並ぶノートを隠すように抱えながら。
 窓が無い部屋は照明を点けてもどこか薄暗い。息が詰まるような閉塞感には慣れても、照度が足りないといつも感じてしまう。
(あの子は、陽の光を憶えているだろうか)



 ガラリ バンッ
 背後のドアが開き、ノートを閉じた。
 その一瞬で心臓のスピードメータが100キロを超えていた。驚いたわけではない。恐怖だ。
 全身に鳥肌が立った。精神が現実逃避を起こして気が遠くなる。血流が停止して指先が疼きだした。絶望すら感じて固く目を閉じた。でも、覚悟はまだできていない。
 出入り口に人の気配を感じても、顔を上げられなかった。首を動かせなかった。
 ノートの上の拳は石のように微動だにしなかった。未だ、死守しなければならないものだ。
 果たしてノートを命に替えられるだろうか。
 その覚悟は、まだできていない。



「センセ、ちはー」
 その間延びした高い声を聞いた途端、「ぐぇ」と喉が詰まった。肺は呼吸をしたいのに、喉のほうは準備できていなかったようだ。
 まったく、安堵の溜息も楽ではない。
 出入り口から聞こえた声は、恐れたうちのどれでもなかった。さっきの一瞬で脳内にリストアップした顔は5名程。ここは80名弱の人間が活動しているので、確率として順当ではある。
 さり気なく見えるように、細心の注意を払ってノートを机の引き出しにしまうと、入り口に立つ少女へ声をかけた。
「どこか怪我でもしたか?」
「そーなの! ひつじがタイヘンなの!」
 舌っ足らずな口調でパタパタと駆け寄ってくる。白いツナギを着て、長い三つ編みを揺らし、そして両手に余るほどの大きな熊のぬいぐるみ。それを押し付けるように差し出してきた。
「手から肉が出ちゃった。手術してシュジュツ」
 見ると、ぬいぐるみの手の先が綻び、中の白い綿がはみ出している。
「どこかに引っかけたのか?」
「もっと心配してヨ! 保健室のセンセでしょお?」
 癇癪を起こし、頬を膨らませて睨みつけてくる。まるで小さな子供をあやしているような気分だ。
「はいはい」
 針と糸を出してぬいぐるみの手を繕ってやった。少女は適当な椅子を陣取ると、面白そうに作業を眺めていた。
「おまえの腕は? 最近は大丈夫?」
「ン? ダイジョウブだよ?」
「…っておい! 傷増えてるじゃないか」
 少女の左腕を掴み、手首を上に向かせる。細く白い腕に、赤い、無数の線が走る。その中に一際生々しい傷跡があった。
「なんで怒るの?」不服そうな表情で腕を引っ込める。「切ってるから、アタシはダイジョウブだよ?」
 ふざけているわけではない。
 解っているつもりでも、時々発せられる理解不能な台詞には苛立ちを覚える。少女の自傷癖は数年続いていて、収まる気配は無い。もはや心配するのを通りこして痛々しいだけだ。
「ほら、できたよ」
 ぬいぐるみを渡すと、「ありがとッ!」とぬいぐるみを両手で抱きしめた。それで安心したのか、少女はぐるっと室内を見回した。
「センセって、ここでいつもヒトリなの?」
「他に誰がいるってんだ」
 この職場の組織図は至って単純で、所長と、その直属の13の班と1つの室から成る。少女は、そのひとつの班の班長であり、数人の部下を持つ。一方、ここは医務室と呼ばれ、要員は自分一人だ。
 エリート意識が高い人間が多くいる班の仕事とは明らかに職務が異なる為、所内では異端視されている。あからさまな陰口が聞こえてこないのは、自分がこの職場の最古参の一人だからだろう。
「いいなァ、うるさく言うヒトもいないしさァ」
 そして彼女も同期、この施設ができた時からの職員だ。
「問題発言だな、副班のことか?」
「ブブー。マルはアタシのこと、何も言わないもん」
「じゃあ誰?」
「お茶飲みたい」
「…」
 また意思疎通が途切れるのを感じた。諦めに近い思いで席を立つ。素直にコーヒーを淹れてやることにした。
「ねーえ? なにこれ?」
 振り返ると、少女が机の上を覗き込んでいた。「あ…ッ!」がちゃん、指がすべってカップが音を立てた。
(ノートはしまったはずだ!)
 少しこぼれてしまったコーヒーを拭いて、カップを持って早足で戻った。
「ん? どれのこと?」
「これー」
 少女が指したものは写真だった。それはいつもノートの間に挟んでいるもの。しまい忘れたのだ。一瞬、心臓が汗を掻くが、すぐに気を取り直す。写真だけなら見られても問題は無い。
「覚えてない? 俺が撮ったんだよ」
 その写真の中央では、三つ編みの女の子が無愛想な顔をこちらに向いている。女の子はぬいぐるみを抱いていた。
「あッ、これひつじッ? どして? 誰? 勝手に持ってっちゃったヤツ!」
 と、素直な怒気を写真に向ける。
「おまえだよ、4年前の」
「ウソっ? これ、アタシ?」「見て分かんない?」「うわ、ぶっさいく〜、…あ、こっちヤハギだ、わか〜い!」
 少女の言う通り、写真右では、この職場の所長が口端を引いて笑っていた。そして。
「───ヨシノ博士だ」心なしか落ち着いた声、しかしすぐにびっくりした声をあげる。
「うあ、え、センセ、これなに?」
「どれ?」「ヨシノ博士が持ってるやつ」少女は写真を指さした。
「持ってるやつ…って。これは薫だよ」
「カオル? え、だって、すごいちっちゃいよ? ひつじくらいしかないよぉ?」
「そりゃあ、4歳だもの」
「ほんとに? こんなのが、あんなになるの?」
 写真左に写る男性は、幼い子供を抱き上げている。穏やかに笑う、彼の一人娘だった。
 この写真に収まっているのは4人。屋上で撮影したもので、背景は気持ちよいほどに青い空だった。この職場へ来る前に撮ったものだ。
 少女はその写真に興味を持ったようで、じっと見ていた。
「ねぇ」
「ん?」
「……空が、青いね」


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