/薬姫/先生
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 2.

 とある薬屋のレジカウンターの外側で、西山は煙草を吸っていた。
 客を待たせておく椅子がこの薬屋には無い。西山は立っているのに疲れて、レジカウンターに両肘を着き体重を預けた。
 静かな昼下がりだった。背後の店先にはガラス張りの引き戸があって、その向こうから雑踏が聞こえる。ヒトの声や、そこらから漏れてくる店内放送、遠く響く車のクラクション。西山は煙を吐きながら、それらに耳を澄ましていた。
 午後2時の太陽の光が、引き戸のサッシの影を店内に映す。
 この薬屋はいつも薄暗い。奥で薬品棚を漁っている店長は、果たして薬のラベルを読みとれるのだろうか。甚だ疑問ではある。
 薬屋の店長が用意した灰皿に吸いかすを押しつけると、西山は胸ポケットから次の煙草を取り出し、火を点けた。
≪嗜好品に毒を選ぶなんて、あまり感心しないな≫
 と、西山が尊敬している人物が言ったことがある。彼のような研究員になりたかったので、当時の西山はすぐに煙草をやめたものだ。
 また吸い始めたのはいつだったろう。
(本当に静かだ)
 店内の足下に落ちる影を見て、ふと笑う。もう一度、外の音に耳を澄ました。人の笑い声が聞こえる。人が駆けていく足音が聞こえる。それは薬など必要ないくらい、健全で健康的である。
 どこからか温かい風が流れて、煙草の煙を揺らす。
 身震いがした。目頭が熱くなって、目を瞑る。
(ああ、なんて…)
(───ここはなんて、穏やかな空間なんだろう)
 涙が滲むほどニコチンが美味い。澄んだ空気と、光と、ヒトの気配がする。
 本当に涙が出てきて、西山は苦く笑った。煙草を持つ指先が震えていた。
 月に一度、西山はこの薬屋を訪れる。職場から離れられるこの時だけが、西山の安らぐ時間だった。
 店長は未だ奥から戻ってこない。どうかゆっくり作業してくれることを祈る。
 どうかこの時間が長く続くようにと。

 ふと西山がレジカウンターの内側に目を向けると、名刺サイズのメモ用紙や付箋紙が雑然と貼られているのが見えた。それぞれに走り書きがしてある。店長が電話対応の際にでも書いたのだろうか。よく見ると、カウンターテーブルそのものにも落書きが見られた。これも店長のメモなのだろう。
 電話の横に大きな電話帳が開いて置いてあった。それは電話会社から無料配布されるもので、職種別に分類された事業者の電話帳だった。西山は視線だけを動かして、それに目をやった。小さな文字がページの端から端までを埋め尽くしている。おそらく電話帳は、調べる目的が無ければ目を通したくないものベスト1ではないだろうか。辞書のほうが余程おもしろいだろう。西山は開いてあるページの見出し、職種にだけ視線を走らせた(職種だけは文字が大きかった)。
 「興信所」という文字が目に入る。
(ああ、そんな職業もあったっけ)
 名前は耳にするが、実際に何をしている職業なのかは知らない。というより、興信所という職種が実在することに少し驚いた。学生の頃に読んだ小説に出てきていたが、フィクションの中だけの職業かと思っていた。
 電話帳の上に、ボールペンが投げ出されていた。


 ドクンッ
「…っ」
 自分の心臓の鼓動で視線がぐらついた。
 何が起こったか西山自身も気付かなかった。目眩で膝を落としそうになった。
 ボールペンに気付くまで、そんなこと考えもしなかった。
 メモ用紙があった。電話帳があり、ボールペンがあった。
(───俺は今、何を期待した?)
 その結果どうなるかなんて、想像もできない。
 期待なんてできない。
 やめろ、という声がする。この店にも迷惑がかかるかもしれない。
 期待しすぎだ。
 そんな大それた転機を狙えるわけがない。(ただ俺は…)
 無意識に、ボールペンを手に取っていた。電話帳に手を伸ばし、印をつける。
 そしてメモ用紙を掴む。
(あの男が死ねばいい!)
 何の迷いも無く、力と意志を込めて叫ぶ。
 握っていたボールペンがしなり、今にも折れそうな音をたてた。
(あんな施設、燃えてしまえ)
(外にいる監視を散らしたい)(俺は疑われている)
(もう嫌だ)
(逃げたい! 逃げたい! 逃げたい! 逃げたい!)
「…っ」
(さあ、早く書いてしまえ! 一番の願いをっ)
(なにも状況は変わらないかもしれない)
(でもあそこにいたら、口にすることさえできないじゃないか!)
 大声を出しているわけでもないのに呼吸が乱れた。肩が上下に揺れてとてつもない疲労を感じる。
 かつて彼が言った。
≪まぁでも、毒も必要なものではあるかな。毒にも薬にもならない、何にも影響を与えない存在のほうが、よほど不要なものだ≫
 ああ、そうだな。と西山は感銘を受けたものだ。
 しかし今は違う。
(あなたが今この世にいたら、あの男が必要な存在だと思えますか?)
(あの男がやっていることを許しますか?)
(俺だって、特別、正義感があるわけじゃない。あの男がやっていることも、遠い場所の出来事なら無関心でいられるのに)
(自分が監視されるような立場でなければ気にも止めないのに!)

「あいよ、お待ちィ」「!」
 一気に現実に引き戻された。殴り書きしたメモを手の中に隠す。薬屋の店長がカウンターの上に茶色い袋を置いた。
「いつものな。めんどいから、切り捨てて4万5千円でいいよ」
「ありがとうございます」
「それにしても、買い物の内容がほんと保健室のセンセイだな」
「ハハ、保健室の先生なんですよ」
「新薬研究って、そんな怪我人でるのか?」
「まさか。医療薬ですからね、現場の怪我はほとんど無いですよ。ただ、穴蔵生活なんで、俺の仕事は研究員の健康管理がメインです」
「あんたのとこの職場、良くない噂あるけど、大丈夫かぁ?」
「その噂は俺も聞いてます。でも、どんな企業にも多かれ少なかれ、悪い噂はたつものでしょ?」
 笑ってみせると、「そーかい」と店長は肩を竦めた。
「…峰倉さん」
「おう、なんだい」
「えっと、いえ、…今日はありがとう、来月も宜しくお願いします」
「そう毎回はまけねーぞ」
 西山は一礼して店を後にする。
 引き戸を締めるとき、西山の手の中に、殴り書きしたメモは残っていなかった。

 すぐそこの街路樹には、ずっと西山を後を着けていた監視がいる。
 強い日差しの下、人込みの中を西山は歩き始めた。職場へ戻るためだ。
(さあ、早く書いてしまえ! 一番の願いをっ)
 あの時、西山が殴り書きしたメモには、「薫を助けてくれ」と書かれていた。





保健室の先生 了
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